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永遠の翼〜
この街で
Written by ねこ娘さん

その2
 彼はビルに誘われるまま、通りの中程にある一軒の小さなパブにやってきた。外装もさして目立つものじゃなく、派手なネオンサインも掲げられていない。通りの客にわかるようにと入り口の扉にはまった唯一の窓からは、何かの都合で持ち主が去った後のような、残された淋しさをたたえる空気が漏れだしていた。周囲の店とは明らかに何か一線を画している。店内の空気も外装から想像する通りだった。まるで戦前の映画のようだった。音楽すら時代錯誤だ。蓄音機から流れてきそうな歌詞のないメロディだけが、低い音量ではあるが店内の隅々にまでたちこめている。
「……」
 彼はしばらく呆然として扉の前に立ちつくした。
「ほら、そんな所に突っ立ってたら邪魔になるぜ」
 ビルはカウンターの前の席につき、隣に坐るよう彼を促した。
 まるで何にも興味を示さないようなマスターが無表情でグラスを丹念に磨いている。
「初めてだな。こんな街は……初めて来たよ」
 久しぶりに人と話した、と言って彼は少しだけ笑ってみた。でも昔のようには笑えていなかったが。
「そうかい。あんたの出で立ち見る限りではその言葉は信じるよ。夜なのにそんな帽子かぶっちゃってさ、顔見られるとヤバいの?」
 ビルはそう言ってレザーのジャケットの内ポケットにしまったケースから葉巻を取り出した。一本どうかと勧められたが、彼は軽く手をあげて遠慮した。
 初めてではなかった、彼がこんな街を訪れたのは。いつか、何度もこんな光に照らされた夜の中に放り出されていた。そこで、自由に泳いでいいと言われた。だから思う存分そうした。
 ……それで、それでいったい何が残ったかなんて、わからない。
「ただ、あの頃は一人ではなかった……」
「あの頃?」
 彼ははっきりと声にしたつもりはなかったが、ビルとは耳ざとい男のことだった。
「まだ随分若い頃だけど……似たような街なら来たことがあるかもしれないと思ったんだ」
 彼は何気なく口元に薄い笑みを浮かべた。
 ビルは葉巻の煙が昇っていくのを見つめている。
「昔の懐かしさを味わいに再び足でも運んだってわけ? 悪魔の抱擁が忘れられなかったってところかい?」
「……」
「ま、なんだっていいんだけど、俺は商売をさせてもらうよ」 
 ビルはその乱暴そうな外見からは考えられないような紳士的な物腰で切り出した。
「この街に来たのは初めてらしいが、あんただって何も知らずにこんな街に来たわけじゃないだろう? 俺にはすぐにピンときたぜ。探し物がおありのようだってさ。この街じゃ、探し物があっても直接にはそこにたどり着けない。いつでも誰か仲介がいるのさ。そうしないと危険だからな。勿論、そこんところのルールを弁えず、ことを急いで手あたり次第に自分の欲求を叶えようってヤツがいたとして、そんなヤツがこの街で厄介なことに巻き込まれようが、俺は知ったことじゃないさ。俺は賢いヤツしか相手にしないんだ」
「君の目は僕が賢く見えるのかい?」
 ビルはおどけた顔をしてグラスの液体を一口飲み大袈裟に肩をすくめて頷いた。
「俺の嗅覚は今まで外れたことはないぜ」
「そうかい。じゃあ、今夜初めて外れたってわけだな。僕が君が言うような賢い人間なら、こんな危険な街をふらふらあてもなく歩きはしないさ」
「ハッハー! 愉快だね。みんなそう言うのさ。賢い連中ってのは。自分の本能に踏ん切りつけられねぇんだよ。ヤツらは何をするにも理由がいったからな。言っただろう、あんた見て何か探し物がおありのようだと俺は感づいたわけだ。それで声をかけた。それであんたはついてきた。あんたが思う賢さってのがどんなもんか俺は知らないが、ある程度言葉の通じる知性の持ち主であればそれでいいんだ。イエスとノーの判断のできる人間であればな」
 ビルは乱暴な言葉を使うが、その話しぶりはまるで子供に童話を朗読して聴かせるようでもあった。
 彼は思わず声に出して笑った。彼は少しだけ昔の面影を口許に宿していた。それは誰も気づかないことだったが。
「たしかに、猿ぐらいの知恵はあるよ」
「じゃあ充分だ」
 二人はお互いに手にしたグラスを打ち鳴らした。
「さて、あんたの望みを聞こうとするか。人間の欲望である限り、この街で俺が揃えられないものはないからな。ただし、要望によっては高くつく、値段は全て俺が決める」
「さしずめ君は悪魔ってところだな」
「そんな恐ろしいもんじゃないよ。あんたの探し物をあんたにかわって見つけようとしている愛の使者と言ってほしいぐらいだ」
 愛の使者か……と彼はつぶやいた。
「さあ、言ってくれ、あんたの探し物ってやつを。それによって、俺はある人間であったり、ある店であったり、ある倶楽部であったり、ある物をあんたに紹介できる。きわめて安全に、足のつかない形でだ。 女? 薬? それとも男か? 少年? 少女? 妖しげな儀式に応える連中? なんでもいい。魔術師? 呪術師? 有名な占い師? 秘密の倶楽部に名を連ねる方法でも教えようか?」
 ビルはカウンターのテーブルをコツコツ打った。
 彼はグラスの氷に視線を落としてボソリと呟いた。
「君に似た人を探している」
「は? お、俺だって?」
 ビルは決まりが悪そうにきれいにセットされた黒髪に手をやった。
「俺は……金さえあれば相手になってもいいが、普段は男の相手なんてしねぇから、あんたのご希望に添えないかもしれないぜ」
「いくらだい? 僕の有り金はこれだけだけど、足りるかい?」
 彼は財布を取りだして、そこに入っていた札を全てテーブルの上に置いた。
 ビルは目を大きく見開いて口笛を鳴らした。
「スゲーな、あんた。やっぱりただ者じゃないな。いいよ。これだけあれば充分だ、奴隷でも猿にでもなってやるよ」
 そう言ってビルはテーブルの上の金をポケットにしまった。
「ただSMってのはよしてくれよ。あれは苦手だ」
 どうやら、思った以上に法外な金を手に入れてビルは舞い上がっているらしかった。
「はは、君は勘違いしているよ。僕はもう若くないんだ。そういうことは望まないよ」
「え?」
「僕の探している友人が君に似てるんだ。この街のどこかにいるのかもしれないけど、とても探し出せない」
「俺に探せってのかい?」
 彼は首を横に振った。
「いや、彼はもういない。死んだ」
「死んだヤツなら探せないじゃないか!」
「そうだ。探せもしないし、見つけだせもしない」
 ビルは深いため息を一ついて、グラスの酒を飲み干した。
「その友人ってのは、あんたにとって何だったんだい?」
「さあ……未来かな」
「抽象的すぎるぜ、俺はあんたほど利口じゃないよ」
「いるだけで良かった。彼がいるだけで全てが特別だった。毎日が特別な日。そして、きっと明日も……そう思える」
「なるほど。じゃあ友人を亡くしてからはあんたには明日は来ないわけだ」
「……」
 この見知らぬ青年に、何か痛い所を突かれたような気がして彼は圧し黙った。彼の目元に険しいしわが刻まれる。沈黙を恐れるように、彼は早いペースでグラスを空け、二杯目を要求した。まるで自分の息子程も歳のひらいているであろう青年に、自分自身ですら理解できない心情というのに気安く触れられたくない気がした。
 彼は目元まですっぽり覆うようにかぶっていた帽子を今更ながら静かに脱ぐと、膝の上に置いた。ごく短くさっぱりと切りそろえられた髪。昔はダークブラウンだった彼の髪も、今では白髪の方が多くなりつつある。そういう年齢だった。
「それは深刻な問題だな。明日が来ないってことは歳もとらないはずなのに、あんたひどく疲れて見えるぜ」
 ビルは帽子をとった彼の横顔をまじまじと見つめた。
「僕ももう半世紀近くも生きてるからね。ろくに明日も迎えられずに」
 ビルが何度か軽く頷いて、テーブルに肘をつき、思案深げに首を傾けた。
「これは受け取れないな。返しとくよ、せっかくだから酒代だけは頂いとくけど」
 ビルはさっき彼から受け取った金から数札だけ抜き取って残りをまた彼の前に差し出した。
「帰りなよ。自分の家にさ。家族とかいるんだろう? 家族の為にこの金使えばいいじゃないか。こんなところで、俺みたいな男にひっかかってさ、バカみたいに金盗られてんじゃねーよ」
「……」
 彼は少し意外な顔をして、さっきまでの態度を一変させ投げやりに言い放つビルに向いた。
 ビルはいらだたしげに葉巻を灰皿の底にねじつけた。
「君は……僕のことを知っているのかい?」
「知らね。あんたなんか知らないけど……俺も、あんたに似た人なら知ってる。とても似てる」
「僕に?」
「あんたには関係ないことだけど……あんたは、俺の兄貴に似てる。びっくりするぐらいによく似てる。こんな街でさ、ろくでもない生き方してる俺に、変装して説教たれに来たのかと思うくらいに似てるよ」
 彼はどこかで期待した自分が少しおかしかった。もう昔のことなのに。
「君のお兄さんは家族思いなのかい?」
「ああ。あんたには関係ないことだけどな。でも、きっとあんただってそうだろうよ」
「ああ。そうだよ」
「じゃあ、もうそんな死んだ友人探してみたり、こんな街を柄にもなくふらついたり、そういうことやめた方がいい。家族があるなら、その家族だけ大切にしていればいいじゃやないか! それ以外に、何がいるんだよ! そうやって、どっちつかずなことばかりするから、疲れるんだぜ? 人にとって、大切なのは家族だよ、家族以外にないよ!……家族がいるならさ、きっとそうに違いないよ」
「それぞれ好きにやっている。みんなもう独立してるんだ」
「そんな簡単に言わないでくれよ。兄貴みたいな顔した人間に言われると、余計にショックだよ。あんたは、本当は満足してるくせに、満足しないふりをしてるよ。もっと、満足するべきだ。今の自分に。こんな簡単に大金差し出すんだから、きっと金にも困らない生活送ってるんだろう?」
「そうだな……そうかもしれない。僕は、もっと満足すべきだと思う。でも、足りない。毎日毎日、どんどん足りなくなると感じる。それはお金でもない……何か」
「あんたの要望は、難しそうだな。もしかして、あんたに必要なのは医者かもな」
 ビルがさじを投げるように言い捨てた。
「そう、僕に必要なのに、足りない。全く足りない……そんなもの」
 彼自身も自分で言いながらも、まるで要領を得ていなかった。何だ? この何かは? いつか、自分はそれを望むだけ手に入れたじゃないか! 今では、それが何かすら思い出せないなんて!
 歯がゆさが増すばかりだった。それで、酒におぼれたのだ。この気分がやりきれず。
 そんなとき、ふと店内に今までのムードとは違う明るいメロディが流れ始めた。
五〇年代の音楽ばかり流れていた店に、六〇年代のサウンドが流れる。
 彼は一瞬、いったいなぜその時代の変化がわかるのか自分でも不思議だった。多くの音楽を聴いた。いろんな世代の、いろんなミュージシャンの曲。どの曲も知ってる。わかる。彼なら、当然のことだろう。しかし、今さっきまで流れていた曲と、今現在流れている曲については彼はよく知らなかった。まだ知らない音楽があるのだ。まずそのことが彼には少し驚きでもあったのかもしれない。でも、こんな曲が流れていたであろう時代を彼は生きてきた。
「音楽か……」
 彼は思わず呟いた。
「は? お、音楽?」
「ああ、音楽だ。今の僕に必要なのは、音楽だよ。最高の音楽。……そう、僕はただ部屋にいて、その部屋には音楽が流れてる。そして、その部屋に流れる音楽が、とっても素晴らしいんだ……そう思う。そう思える音楽」
 男の口ヒゲがバカにしたようにゆがんだ。
「あ〜あ、俺はなんて見る目がない……ってわけかい。素晴らしい音楽が欲しいなら、来るところを間違ってる」
「そうかもしれない。僕も、初めて気がついた。ここじゃないって、ここでは見つけられないんだってさ。……でも、僕の友人はね、探し出したかもしれないんだ」
「へぇ〜、そりゃ大層びっくり仰天な音楽なんだろうな」
「そうだな……いつも、僕は彼に驚かされていたよ」
 ビルは彼の言葉に何度か頷きながらグラスに残ったウイスキーを飲み干した。

〈つづく〉
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