BACK


永遠の翼〜緑の光線


機体が急上昇し、座席に全身が押し付けられる。
思わず目をぎゅっと閉じ、座席のアームを握り締めたジョンは、
しばらくして苦笑いを浮かべて緊張を解いた。
ずいぶんと多くのフライトを経験してきたはずなのに、昔の癖は抜けないとみえる。
若い頃は、空の移動が嫌で仕方がなかった。足が地に着いていない心もとなさと、
狭い空間での閉塞感が彼を不安にした。
歳と共に克服出来たのかと問われれば、そうではない。
単にフライトより嫌なものが増えただけである。心もとなく、胸を締め付けるような
圧迫感をもたらすものが他にいくつも増えたせいで、押しやられてしまっただけだ。
分厚い雲を抜け、真っ青な空間が広がる小窓の光景を彼は眺めた。

ほら、ここには青空がある。まぶしい太陽が見える。
だけどあの場所には、窓すらない。
あの場所にあるのはただ、自分の無能さを嫌というほど思い知らされる冷たい空気だけ。


スタジオの扉の前まで来ると、ロジャーは深呼吸した。
傍目には単なるストレッチに見えるように、腕を回す。
入るのを躊躇しているなんて、怖気づいているだなんて、誰にも言わせないためだ。
威嚇と防御を兼ねるサングラスをしっかり装備し直して、勢い良く扉を開く。
最大限に張り詰めた空気が、肌を刺した。
一段と空気が重苦しい部屋の片隅で、カーリー・ヘアの男がむっつり腕を組んでいる。
向き合う相手がフレディでないことにいくらか安堵しながら、ロジャーは側に近づいた。
フレディの前で気のおけない陽気な男を演じるより、ブライアンの愚痴に適当に
付き合うほうがずっと楽だ。

「今日は音合わせするはずだよな…どうしたんだブライアン?
大事なオールド・レディがヘソ曲げちまったのか?」
「僕らの偉大なるベーシスト殿が、またやってくれたのさ」
「ああん? 来てないのか、ジョンの奴」
エンジニアやスタッフがひしめくスタジオをぐるっと見回してみたロジャーだが、
それらしい人影はいない。
「いや、いらっしゃったんですけど、さっきちょっと…」
コーヒーを運んできたスタッフが脇からロジャーに耳打ちする間、ブライアンは
激しい口調でまくし立てた。
「一体彼が何を考えているのか、僕にはさっぱり理解できないね。昨日はあんなに
何くれとなく協力してくれたんじゃないか、それなのに今日はどうだい。
ぷいといなくなってしまって!この曲が嫌なら最初からそう言えばいいんじゃないか!」
「あいつの腹の中でのタメの長さは、今に始まったこっちゃないだろ」
コーヒーを啜りながらロジャーは言い、内心ため息を吐いた。またか。
(俺がもう少し早く来てりゃ良かったな…いや、それでも同じだったかもな…)

全クレジットをクイーン名義に統一しようと決めた前作に引き続き、今回製作中の
アルバムも4人が平等に曲作りに当たるというのが前提だった。だがここへきて、
その取り決めはあくまで前提に過ぎなくなった。そうなるであろうことは、ある理由から
薄々と感じてはいたものの、予想とは少し異なる方向で均衡が崩れ始めたことに
ロジャーは困惑していた。

「どうせまた家にとんぼ帰りしているのさ。何も今この時期に、わざとらしく
家族思いを強調することはないだろうに!」
私生活が破綻寸前のブライアンは憂鬱を振り切るかのようにスタジオでの作業に
没頭していた。ロジャーにしても、帰る家が定まらないままソロ活動に熱を注ぎ、
アルバムにも今まで以上に尽力しているつもりだ。だが二人の献身をよそに、ジョンの
足並みだけが乱れがちだった。前作の段階から既に、長時間スタジオに詰めることに
対して不平を漏らしていたのは知っている。
『でも俺達には使命があるだろう。
俺たちは、1つの目的のために、そうすべきなんじゃないのか』
ロジャーがほのめかした時、ジョンは黙って目を伏せた。
だがその時の物言いたげな口元をもっと問い詰めてやるべきだったのかもしれない。

「まあ、あいつにはあいつなりの考えがあるんだ。尊重してやれよ」
「自分のことしか考えていないのさジョンは。僕達がなんのためにこんなに懸命に
なっているのか、ちっとも分かっていないんだ。全部フレディのためじゃないか。
フレディのために僕達は一つになろうって決めたんじゃないか。彼に残された時間が
どれくらいあると…」
「ブライ、よせ」
ロジャーは激昂して声高になるブライアンを制した。入り口付近が騒がしくなり、
聴き慣れたフレディの声が近づいてきたからだ。
ロジャーも内心はブライアンの言葉に傾いている。ジョンを責めている訳ではない。
それが彼の意思なら、黙って見守ってやってもいいと思う。あんなことを言いながら、
ブライアン自身も頭では分かっているんだろうとロジャーは踏んでいる。
(だが、フレディがフレディでいられる時間が刻一刻と削られていく今、
何をおいても彼のことを考えたい。彼のために何かしたい。
そう思うのが人情というもんじゃないのか、ジョン)


フレディのために。
ジョンとて皆と思いは同じだった。自分に何が出来るのか、ずっと考えてきた。

――僕は僕のままでいればいい。フレディもそれを望んでくれているはず。

だが悩んだ末に彼が出した結論は、ここ最近の閉塞感を緩和することが出来なかった。
もともと、感情を外に出すのが不得手なジョンは、自分らしくいようとすればするほど、
強烈な一体感を醸し出し始めた周りと空気を異にしていった。
自分に注がれる冷たい視線が痛かった。

フレディのために。
(結局は自分のためだ。皆、保身のために彼を利用しているんじゃないか。
誰も本当に彼のことなんて真剣に考えていない)
防御本能から来る彼の中の辛辣さがその言葉を偽善だと嘲る。
荒んでゆく心をもてあまし、どこにいても辛すぎた。

ジョンは曲が書けなくなっていた。
断片的に頭に浮かぶメロディー・ラインは、録音するまでもなく消え失せる。
何ひとつ自信が持てなかった。

こんなもの、フレディに聴かせられない。
こんなもの、今の彼に歌ってくれなんて言えない。

自宅では無為の時を悶々と過ごし、ひとたびスタジオに行けば、
悲愴感漂うスローガンの元で、荘厳な曲の数々に見舞われる。
なぜブライアンやロジャーはこの状況下であんな曲が書けるのだろう。
彼等の持ち込む、またスタジオで生み出す音楽は、最後の飾りつけをフレディに
頼めばよいだけの完璧なものにみえた。今になって、いかに自分がフレディに、
フレディの声に依存しきっていたのか痛感した。荒削りなデモ・テープを聴いて、
アイデアを星のように散りばめながら完成を手助けしてくれた彼。

君はいつでも僕に親切だよ、フレディ。だがもう一緒には作れない。
頼ってばかりいられない。君の貴重な時間を僕なんかのために割かせたくないから。
ほら、向こうでブライアンやロジャーが君のことを待っている。
君を必要としている人が、今はあまりにも多すぎる。

『昔に戻ろう。あの頃のような曲を書こう』
ブライアンはそう言って皆を鼓舞した。
今度のアルバムは往年の香り漂う大作になることは間違いない。

あの頃のような。
僕がまだ作曲も出来ずにどこか客観的に接していたあの頃のような。
今がそうだというのなら、僕がいなくても構わない。そういうことだろう?

窓から見える空に向かって、ジョンは思いをぶつける。
ただ冷たい沈黙を返すばかりの青い空に。


「お客さんも、"ハイヨンベール" をご覧に?」
「え? 今なんて…?」
訛りの強いタクシーの運転手から耳慣れない言葉が飛び出し、
ジョンは物思いから我に帰った。空港からあても無いまま、宿泊施設のありそうな
場所まで行って欲しいと告げた矢先のことだ。

「"Le Rayon Vert"、『緑の光線』ですよ。2年ほど前に映画のロケ地になってから、
夏場だけの観光地だったこの辺も年中お客が来るようになりましてねえ」

緑の光線。その言葉にはどこか懐かしい響きがあった。
記憶を手繰り寄せると、子供部屋にあった1冊の本が見え隠れした。

「映画は知らないけど、そんな風な名前の本があった気がするな…」
我が意を得たりと運転手が頷く。
「そう、我がフランスが生んだ偉大な冒険小説作家、ジュール・ヴェルヌの作品が
元になってるんで。お客さん、イギリスから来られなすったんなら、例の伝説は
ご存知なんじゃないすか、ハイランドの。『緑の光線を見た者は、その効力によって、
もはや感情のことで思い違いをしなくなる。この光線は錯覚や虚偽を打ち砕く。
幸いにして一度ちらっとでもこの光線を見る事ができた者は、自分と他人の心の内が、
はっきり見えるようになる』ってやつでさあ。それがこの先の海岸線から、日没直前に
見えるって評判に。まあ、私ぁ見たことねえですけどね。そろそろ日没だから、
なんでしたらホテルに向かう前にお停めしますぜ」

多くの客に一席ぶってきたのだろう、運転手は淀みなく小説の中の言葉を引用する。
そんなたわいのない伝説を信じて足を運ぶ酔狂な人間だと思われるのは不服だったが、
なぜかその時ジョンは、運転手に言われるまま、海を見ようという気分になった。


「ジョンはいないんだね」
スタジオを見回して問うフレディに、ロジャーとブライアンは我先にと言葉を継ぐ。
「あ、ああ。たぶんいつもの隠密行動だろう。マイペースすぎてやんなっちまうよな」
「仕方がないから、僕達だけでやってしまおう。
なんなら僕がベースをついでに担当したっていい」
「いや、俺だって弾けるぜ」
フレディは少しの間沈黙し、かぶりを振った。
「この曲は後回しにしよう。ジョン抜きでなんてやれない」
「おい、フレディ! せっかく来たのに、それはないだろう」
「時間だってあまりない訳だし…いや、その、アルバム完成予定日までの、ってこと
だけれども…」
詰め寄る2人を両手で制して、フレディは言った。
「気持ちは嬉しいけどね、僕にだってジョンを待つくらいの時間はまだたっぷり
あるんだよ、親愛なるダーリンたち」
「君が今日来ると分かっていたのに、彼は自分の意思で出て行ったんだ。だから
構う必要なんてないんじゃないか?」
「いつ戻ってくるか、分かったもんじゃないぜ…?」

「さあ皆、まだまだやることはあるだろう? ねえブライアン、君がこの前言ってた
アイデアっての、煮詰まった? ロジャーはビデオのこと考えてくれたの?
そうそう、デイヴィッド、あの件どうなってるのかなあ?」

『いいや、すぐに戻ってくるよ。だって僕には分かるもの』

最後に彼が呟いたその不可思議な言葉を二人が咀嚼する間もなく、フレディは
エネルギッシュにスタジオ内で動き始めた。


ジョンがタクシーを降りた頃、太陽は遥かに続く水平線に差し掛かろうとしていた。
海水浴のシーズンをとうに終えた海岸は賑やかさを失ってはいたが、運転手が言う通り、
防波堤に佇む者たちは少なくない。
親子連れやカップル、彼のような独り者、全てが同じ方向を固唾を飲んで見守っている。

緑の光線。

光の分散が激しい日没時には、普段の赤い光に屈折率の異なる青い光が混ざり合うことで
緑の光が生じる場合がある。様々な条件がうまく揃わないと見えない珍しさはあれど、
単純な物理で説明出来てしまう現象だ。それを見れば自分や他人の心がはっきり分かる
だなどと、皆、本気で信じているんだろうか。
でも、もしそんなことが可能だとしたら。
やはり知りたい。自分や他人の感情にこれ以上惑わされたくない。

フレディ、君の気持ちが分かれば、僕だってもっと役に立てるかもしれない。
錯覚や虚偽が打ち砕けるのなら、今のように、君や皆を困らせることはなくなる
かもしれない。

やがて太陽は水平線の後ろに半ば姿を消した。
空と海の境で、最後の抵抗を試みるかのように赤い光線が迸り、周囲を射る。
やがてそれも青い海へと吸収されてゆき。
人に希望と幸せを与えるという緑の光が、もうまもなく。

<君の瞳は幸せをもたらす色だよ>
<君の瞳を見ればなんだって分かってしまうな>

「あ…っ!」
吸いかけの煙草が指の間をすり抜けた。
突然、彼は悟った。

ソウダッタンダ。
ソレデヨカッタンダ。

「空港に戻ってくれないか。今すぐ」
「え? だってお客さん、これからいいところだってのに…ほら!」
「いいから早く!今ならまだ最後の便に間に合う」

ジョンの背後で、ひときわ大きな歓声が上がった。だが彼は振り向こうともしなかった。
自分の望むものが、はっきりと見えたからだ。

フレディには分かっているんだ。自分の心も、僕の心も。
なぜなら僕は、彼の瞳が投げかける黒い光を見てきた。
そして…ああ、自惚れと言われても構わない。
つまり彼は、いつでも見てくれていたんだ。僕の瞳から洩れる、緑の光を。
もう迷うまい。
全てを受け入れてくれる存在がいたという事実は、消えないのだから。
僕達は、互いを通して、幸せそのものを見ていたのだから。

水平線の彼方に彼が見た色は、穏やかで深い漆黒。
灰緑色の瞳を柔らかく受け止め映し出す、漆黒の瞳。

あとがき

BACK