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永遠の翼〜Sail Away Sweet Sister

モントルーの夏の夜はひんやりと涼しい。
何か羽織ってくればよかったなと、宿泊先を出て、もうスタジオに着こうかという頃に
ようやくブライアンは思い当たった。
(お前も寒いかい…?)
レッドスペシャルを冷気から守るように抱きながら、ドアをくぐる。

誰もいないだろうと思っていた部屋に、明かりが点いていた。
「あ、ブライアンさん…!今ごろどうしたんですか?」
「うん、ちょっと曲のアイデアが浮かびそうだったから、来てみたんだけどね。
…君こそ何故こんな夜更けまで?」
「え、ええ、あの…彼がまだ…」
言葉を濁したアシスタントは、足元の床に酒ビンと共に転がっている「主人」を見やった。
「おやおや、しょうがないなあ。…じゃあ、あとは僕が面倒みておくから、君は帰っていいよ」
彼の言葉にほっとしたように頷くと、アシスタントは足早に部屋を去った。

ブライアンは腰を下ろし、相手の肩を揺さ振った。
「ジョン? ほら、ジョンったら!」
始めはとろんとしていた彼は、ブライアンに気付くと、開けっぴろげな笑みを浮かべた。
「わあ、ブライアン?いいとこに来たねぇ。一緒に飲むぅ?」
「何言ってんだよジョン。いい加減にしないとホテルへ戻れないだろ」
「いいんだよぉ、ここに泊まるんだからねぇ」
「…もう、君は酔っ払うと始末に終えないんだから…」
何がおかしいのか、くすくす笑い出すジョンを目の前にして、それにしても陽気な酒だと
ブライアンはため息交じりで思う。
普段控えめで口数が少ない反面、飲むとケラケラ笑いながらいろんなことを話し出し、
子供のようにはしゃぐのだ。
その様子が余りにも楽しそうで、周りの人間もついつい酒を勧めてしまう。
以前それで失敗して腕を怪我した時からしばらく自分でも控えていたようだが、
今夜は久々にしこたま飲んでいるらしい。

「ねぇねぇブライアン、これ見てよぉ!いいだろぉ?綺麗だろぉ?」
彼が笑いながらポケットから出してみせた写真には、ウエディングドレスに身を包んだ
愛らしい女性の姿が写っていた。
「これ、誰だい?」
「分かんないのぉ?僕のだぁいじな妹だよぉ…日曜に結婚したのさぁ…。
君流に言うとねぇ、今から約1日と13時間前だよぉ…。
ううん、違うかなぁ…いや、やはりそうかなぁ…あ、これも君の真似だけどねぇ」
くくくっ、とまた笑う。
(ああ、そうだった…)
ブライアンの脳裏に、2週間前の会話が蘇ってきた。

「…その日なら戻ってると思う。うん、僕が出るって伝えておいてくれる?じゃあ、また。
…分かってるよ。母さんも体に気をつけて」

「電話、お母さんからかい?」
受話器をおいたジョンに、ブライアンは尋ねた。
彼等は今、モントルーのスタジオで新作のレコーディングに精を出している最中である。
ジョンの母親が電話してきたのが珍しくて、少しばかり好奇心が働いた。
少し口篭もりながら、ジョンは答える。
「…うん。妹が結婚するんだ」
「妹さんが、結婚!?もうそんな歳かい?…で、どんな奴となんだい?」
(彼の家系は何でもすることが早いんだな)
彼の妹に会ったことはなかったが、4歳下のジョンよりまだ5歳は下だというから、
ブライアンにとっては子供も同然の危なっかしい年齢に思えた。
彼の詮索に、ジョンはいぶかしげな表情を浮かべる。
「…よく知らないよ」
身内の話をしたがらないジョンには慣れているはずだったが、この淡白な返答は
非常に気に入らなかった。
「ええ?なんてこった!…知らないって、君のたった一人の妹だろ、ジョン!
そんなことでどうするんだよ!君には兄貴としての自覚がないのか!?」

ブライアンの声で、ロジャーが寄ってくる。
「おいおい、ブライアン、何カッカきてるんだよ。どうしたんだ、ジョン?」
ジョンが顛末を話すと、ロジャーはそれがどうした、という顔をした。
「なんだ、俺だってクレアとはここ数年会ってもいないぜ。兄と妹なんてそんなもんだよ」
「そんな淡泊な関係なのかい、兄妹ってのは。僕には理解できないね」

「兄と妹がどうしたって?」
フレディも顔を見せた。
「いや、ジョンの妹が結婚するそうなんだ。
それでジョンが相手の奴を知らないと言うもんだから、ブライアンが怒ってさあ」
「へえ、ジュリーがもう結婚なの?おめでとう。
それじゃ、バージンロードはジョンが付き添ってやるんだね」
「…ジュリーは僕が忙しかったら叔父でもいいと言ってるそうだけど、
丁度イギリスに戻ってる頃だし」
(そうか、ジョンの親父さんはもういないんだ)
それなら尚のこと、もっと妹の事を考えてやるべきだ、とブライアンは思う。

ジョンが部屋を出たとき、彼はフレディにその考えを述べた。
「そう思わないかフレディ。君だって、カシミラは大事だろ?
彼女が得体の知れない男と一緒になったりしたら、君は平気かい?」
「そりゃあ、平気な訳ないよ。…でもさ、ブライアン。
今度の僕等の休暇を設定したのは誰だっけ?」
「えっ?…そういう調整はいつもロジャーとジョンがやってるじゃないか」
「ジュリーの結婚式に『偶然』休みが取れたと思ってるのかい?」
「そうか…」
「そうそう。いつもは俺が先に決めるのに、今回はえらく難しい顔で
カレンダーと睨めっこしていたもんな」
「そういう手回しは完璧なのさ、ジョンって奴は。
だからきっとジュリーの相手の事だってよく知ってると思うよ。
僕だってカシミラのボーイフレンドの名前を言えるもの」
「それはないだろう、フレディ。君だって最近会ってもいないくせに」
「僕らはね、文通してるのさ、ダーリン」
「…文通ねえ…」
「カシミラと僕はね、小さい時からあまり一緒には過ごしてなかったんだ。
だから会うとちょっぴり照れるけど、手紙ならどんなことでも言えるしね。
それに、どんなに離れていても、僕らはきょうだいなんだなって感じるんだよ。
ロジャーだってそうだろう?」
「え、俺?俺は…」
そこでロジャーの手元の電話が鳴り、少し返答に困っていた彼はこれ幸いと手を伸ばした。

「ああ、ロジャーは俺だよ、繋いでくれ。
…なんだ、こんな所まで電話してくるなよ。…うん?…馬鹿、そんなこと一人で決めるなよ。
俺が選んでやるって言ってるだろ?…駄目だ、見た目で選ぶんじゃない、見た目で!
それだからお前は…」

『ドミニク、かな…?』
小声で電話に怒鳴っているロジャーを見ながら、ブライアンはフレディに耳打ちした。
『まさか。彼女にあんな口の利き方はしないよ…クレアだろ。
彼女が車を買い替えるんで、一番似合うのを選ぶんだって言ってたもの…
結構妹思いなんだよな、ロジャーも』
(なんだ、数年も会ってないってのは、嘘か…)
そういえば学生時代から、ロジャーは母親や妹に事ある毎に贈り物をしていた。
もっとも、あらゆる女性に対する気配りという点では彼の右に出るものはいないのだが。

(妹、か…)

「ブライアン、聞いてるぅ?酔っ払ってるのぉ?」
ジョンがひょいと顔を近づけてきたので、ブライアンは物思いから我に返った。
「…あのね、酔っ払ってるのは君だよ。はいはい、素敵な妹さんの結婚式は素晴らしかったんだね?
そして彼女のこれまた素敵な兄さんは、御満悦なんだろう?」

ジョンは何故かふっと視線を落とした。次に口を開いたとき、言葉はささやきに近かった。
「僕はねぇ、ブライアン。あんまりいいアニキじゃなかったんだ…。
父さんが死んだときも、ロンドンへ出てきたときも、自分のことしか考えてなかった…。
ジュリーはいつも一人っきりさ。
…でも、ほんとはね、可愛くて仕方がなかったんだよ…守ってやりたい、って、
父さんの代わりになれたらな、って、いつも思ってた…。
でも、僕じゃ駄目だったんだよね。知らないうちに、僕の手の届かないところに
いっちゃってたんだよね…」
「ジョン…」

誰よりもクールで客観的な仮面の内側を垣間みた気がした。
俯き加減の横顔がとても哀しく、頼りなげに見えて、ブライアンは胸が熱くなる。
思わず肩に手をそっと乗せると、ジョンは顔を上げてあどけない少年のように笑った。
「でもねぇ、嬉しかったよぉ…あんな幸せそうな顔見たの、初めてでさぁ。
それで、あんまり嬉しかったからねぇ、今夜も飲んでるって訳」
(…でも羨ましいよ、そんな君が)
ブライアンは無言で頷き、ジョンの繰り言にしばらく付き合った。

いつのまにかジョンは静かに寝息を立てていた。
ブライアンはスタジオの外に出て、穏やかに凪ぐ湖を眺める。

自分に妹がいたら、どう接していただろうか。
フレディのように、離れていても精神的に結ばれているだろうか。
ロジャーのように、粗野にみえるが温かい愛情を注いでいるだろうか。
それとも、ジョンのように。
(不器用なんだよな、ああ見えて…)
ブライアンはふっと笑みをもらす。
柔らかで優しい風が、親しい者の囁きのようにブライアンの頬をくすぐっている。

――ジョンは、純白のドレスに身をつつんだ妹を優しく見つめた。
視線に気付いた彼女は、ほんのりと顔を赤らめる。
「やだ、兄さんったら…何?」
「…いや、何でもないよ」
(父さんにも見せてあげたかったな)
ジョンは早逝した父のことを考えていた。
父なら、どんな気持ちでバージンロードを歩いただろう。
愛しい者が幸せになる満足感と、自分の手を離れていく寂しさが入り交じった、
今の自分のような気分になっただろうか。
ジョンの物思いが通じたのか、ジュリーが静かにつぶやいた。
「…私ね、父さんのこと、あまり覚えてないの。でも母さんが言ったわ、今日の兄さんは
父さんにそっくりだって」
そしていたずらっぽい表情で付け加える。
「兄さんが髪を切ってくれて良かった。前のままじゃ、どっちが花嫁だか分からないって
皆に言われそうだもの」
「…こいつったら!」
そのとき、パイプオルガンの荘厳な音色が、教会を満たした。
二人は顔を見合わせて笑みを浮かべ、赤い絨毯に足を踏み入れた。――

朝ジョンが重いまぶたを開くと、ブライアンの頭がいきなり飛び込んできた。
(…うわっ…!)
びっくりして一気に目が冴える。
彼はどうやら作曲しながら隣でごろ寝してしまったらしく、楽譜が散乱していた。
手元の一枚を拾って、眺めてみる。
(これは…この曲は…)
夕べの会話が断片的に蘇る。
(ブライアン…)
彼の寝顔をしばらく眺めた後、ジョンはそっと楽譜をかき集め、愛器のある別室に向かった。

コンコンコン!
「ん…?」
「ブライアン、こんなとこに寝転がってどうしたんだよ」
ロジャーがスティックで彼の頭を軽く叩いていた。
「…ああ、寝てしまったのか。今何時?」
「昼の2時。もうすぐフレディも来るぜ?いったいどうしたんだよ。
ジョンはさっき『寝る』っていってボーッとホテルに戻ったし。
何か二人でやってたのか、夕べ?」
「いや…別に何も…そうだ、この辺に楽譜落ちてないか?」
「へえ?どこにもないけど」
「おかしいなあ…確かに夕べかいてたはずなんだが…」
ロジャーは笑う。
「夢の中でも作曲してるとはさすがだね、ブライアン大先生」
「ほんとに書いてたんだよ…」

「ブライアン!すごいね君は!」
フレディが顔を紅潮させて姿を見せた。
「さっき向こうの部屋でこれ見つけたんだ。いい曲じゃないか…!
気に入ったよ。でもこれは君が歌うほうがより効果的だね、僕としては残念だけど」
彼の手には楽譜が握られていた。
「あ、それ…まだ完全じゃないよ」
「そりゃ、君のことだからこれからいろいろいじるんだろうけど、
ベースラインなんてもう完璧じゃないか」
「ベース…?そんなところまで考えてなかったけど…」
フレディから渡された楽譜を見て、ブライアンは驚いた。
(ジョン…)

「そうだ、最後は僕に歌わせてくれよ…こんな高い声出せるの、
このフレディ様しかいないだろ?」
「俺のドラムはあんまり目立っちゃマズイかなあ…でもこのへんにちょっと入れてみよう」
フレディとロジャーは身を乗り出してアイデアを交換し始める。

ブライアンの頭には、水面にそっと広がる波紋のような、
または愛する妹を見守るしかない兄の静かな吐息のような音色が、穏やかに響いていた。

あとがき

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