The Early Years (4)

Written by Mark Hodkinson (OMUNIBUS PRESS)
Richard
The Oppositionのボーカル兼リードギター(後にキーボード)、
皆にお金を貸して楽器を買わせた金持ちのぼんぼん、リチャードさん

Chapter 1 : Clucksville (p.20--p.22)

レスターでは小クラブシーンが発展しており、ロンドン・ロードのGranny'sやThe Casinoなどに定期的に出演していたThe Oppositionもその一部だったが、同じようなサーキットには、Strictly For The Birds、The Executives、Sweetheart、Cedar Set、Wellington Kitchといった名のバンドがひしめいていた。おそらく、The Night Owlがもっともヒップなクラブだった。ジーノ・ワシントンが出演し、オールナイター達はロンドンから伝わった流行に夢中になっていた。それはほとんど首都の模倣にすぎなかったが、その当時は、パリやニューヨーク、そして世界中が、なんらかの意味でロンドンを模倣していたといえよう。

強烈というよりはひたすら真面目なThe Oppositionは、田舎の一バンドにすぎなかった。ギタリストのデビッド・ウイリアムスはMCとして頭角を表し始め、きらびやかなメーキャップを施したり、テレビのパペットショー「Pussy Cat Willum」からとったニックネーム、「Pussy」を名乗ったりと、よりエキセントリックなスタイルをとるようになった。後にローブロー・アート・カレッジに進学するが、彼の芸術センスはドラッグによってもたらされるらしく、麻薬に溺れていたが「LSDはほんの少しだけ」といった具合で、彼のホームメイドの「ケーキ」はパーティーで人気があった。ビートルズだったらOKなんだぜ?…がデイブの主張である。バンドは洗練されたイメージを求めて、メンバー毎に色が異なるシルクのシャツを着たりし始めた。

彼らは皆非常にノーマルに見えていたが、一人一人はかなり個性的だった。リチャード・ヤング(「彼は真面目すぎて変な奴だったな」――デイブ・ウイリアムスの言)は風変わりなことで知られていた。速く走れるように車を改造したのはいいが、アクセルに触れなくても動き出す車になってしまったのだ。彼はエンジンをかけたまま駐車しようとして、ドアを閉めた途端、車は意志を持ったように自分で走り出していったそうである。薬屋でのこんなエピソードもある。彼は喉を掴みながら飛び込んでいき、口から泡を吹いて店員に懇願したのだそうだ。「俺のクスリをくれ…早く…」

ザ・フーはThe Oppositionにも大いに影響を与えており、ジョン・ディーコンでさえも、標準サイズのスクーター、ヴェスパ180を所有していた。「僕達は皆、パーカなんかも全部持っていた」デイブ・ウイリアムスは言う。「家の近くの道端にちょっとした浅瀬があるんだ。ある晩ジョンが僕んちにやって来たときのことを思い出すなあ。彼はそこで滑ってスクーターから投げ出されたのさ。うちにたどり着いた時には血塗れでかなり取り乱してた。実際、ジョンが取り乱した姿なんかを見たのはそのときだけだったな!」

ロンドンのトレンディなクラブには、気ままなゴーゴーガール達がいた。フレンチシガレットを吸い、サングラスをかけ、映画の撮影隊を永遠に待ち続けているようないでたち。The Oppositionにも、見るのは飽きたが参加するわけでなく、もっぱらボランティアに回っている、2人のおしゃまな学友がいた。ジェニー・フューインズとチャーミン・クーパーがその2人である。1967年にバンドのゴーゴーガールになった彼女達に、デイブ・ウイリアムスは非常に感銘を受けたらしい。「ふたりともすごくセクシーで、どの子達よりも大きいオッパイを持ってたよ」彼女達の振り付けは全くの即席だった。「ステージに上がって、すっごくシンプルに踊るだけだったの。何して良いのか分からないまま上がるのはホントに怖かったけど、60年代は、なんでもそんな感じだったのね」ジェニーは言った。

これはジェニーにとってやり甲斐のある経験だったらしい。17歳の誕生日、母親に本格的なモデルコースの費用を払ってもらった彼女は、レスターのKathy Parker Agencyで3年間仕事をすることになる。彼女の美貌(当時のサイズは以下の通り。体重:5'5"、バスト:36"、ウエスト:25"、ヒップ:36"、足:4-4 1/2)と洗練されたポーズは、Player's cigarettesなどの売り上げに貢献した。またシーサイドの街の海開きのパレード等にも出演していたらしい。

ピーター・バーソロミューはグループ内のアウトサイダーであり、真のメンバーではなかった。3歳年長で、大変一人よがりな人物だったせいでもある。アンソニー・ハドソンは今や、ポップビジネス界の人間らしい「アント・ハドソン」の名で通っていたが、ピーターは、自分なら彼よりも多くの依頼をとりつけることが出来ると豪語した。アントはまもなくクライブ・”Cluck”・キャッスルディンと同じ道をたどることになる。少年達はそれを、「彼はClucksvilleに行った」というふうに呼んだ。

ピーターはグループを市場に連れて行き、レスターの大型音楽店で買い物をさせたがった。チューニングペグでギターが引っかけられていて、誰かがドアの前を通る度にギターが壁にぶち当たっているようなCox'sではなく、Belgrave RoadのMoore やStanworth'sなどで、である。彼はジョン・ディーコンを連れ出し、ベース用のAmpegアンプを買わせた。良い物だが、暗闇の中でぎらぎらと緑色に輝くシロモノだった。

ピーター・バーソロミューのアイデアは却下されることもあった。おそらく彼のおせっかいな性格が墓穴を掘ったといえる。「当時の俺はIrish Linenって店に勤めていてね、そこにはトレンディな物がたくさんあった」彼は説明する。「店の布を使って、皆のためにポロネックシャツを縫ったんだ。ジョン・ディーコンはこれっぽっちも気に入ってくれなかった。彼はこう言ったよ。『これじゃまるでホモの集団じゃないか。僕は着たいものしか着ない』これを聞いたときは驚いたな。俺は一応年上で、なんでも知ってる偉い奴ってことになってたのにさ、『だめだ!』なんて言うんだから」

(つづく)

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