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ジョン・ディーコンの半世紀


(4)クイーン加入

勉学の傍らアルバイト(英国政府観光庁で「Tea Boy(=お茶汲みクン?)」してたそうです)やディスコ通いもこなしていた19歳のジョンが「クイーン」という名のバンドに出会ったのは、1970年の10月のことでした。ブライアンとロジャーの「スマイル」が、ティムの脱退・フレディの参加によって「クイーン」と改名して数ヵ月後です。でもこの時は本当に「出会った(見た)だけ」だったようで、後に「全員、黒い服を着て、照明もすごく暗かったので、見えたのは4つの影だけ。あまりたいした印象はなかったな」と持ち前の淡白なコメントを残しています。

では彼自身はどうだったのかというと、その翌月、チェルシー・カレッジ内で行われた「ハーディン・ヨーク」というバンドの前座として、いつもジャムっていたルームメイトのピーター・ストッダード君他3人と「ディーコン」という名で出演しています。ディーコン。彼なりに最大限の自己主張をした末の命名なのかどうか謎ですが、どうやらこのカルテットはジョン自身もやっていてあまり面白くなかったみたいで、この時のみのバンドでした。このギグを他の3人が見たでしょうか? それは分かりません。「ジョンと他のクイーンのメンバーはオーディション以前から知り合いで、ジョンがパブなどで演奏しているのを見ていた」という資料があるんですが、知られているものがこの一夜限りの「ディーコン」だけなのでなんともいえないのが実情です。(当時のロンドンの学生バンド人口ってどれくらいなんでしょうね。やってると目立ったのかな?)

そして運命の時はやってきます。1971年1月の末。とあるディスコでジョンが「友人の友人」繋がりで紹介されたのが、ブライアン、ロジャー、そしてジョン・ハリス(彼等の友人でエンジニア)でした。ベーシスト選びに困っていた彼等と、選んでもらえなくて困っていた彼。「じゃあオーディションに」と話がまとまり、数日後、ジョンはインペリアル・カレッジの講堂へと向かいます。憧れのクリス・スクワイアと同じリッケンバッカーのベースと、お手製の小さなアンプを提げて。

このオーディションの時の様子は「The Early Years」第8章に詳しく書かれています。とある資料には「ビートルズの『イエスタディ』の弾き語りをした」なんてことも書いてあるんですが(「弾く」のはともかく…)、「The Early Years」によれば初期のクイーン・ナンバーである『サン・アンド・ドーター』をその場でブライアンにコードを教わりながら弾き、その後ブルース・セッションで締めたとありました。別件でその場に居合わせた(フレディがリズム・ギタリストとして呼びたがっていて、そのオーディションに来ていた)クリス・ダメットさんに言わせると、「恐ろしくキレる演奏だけどイマジネーションはゼロ」だったそうですが、その「没個性」こそ、ソリが合わない・ライヴ中に派手に動き回る、そういった理由で何人ものベーシストと別れてきた他の3人が切に望んだ資質だったといえます。演奏はきっちりしていて、器材に明るく、大人しい(年下で扱いやすそう)。返事は数日後に持ち越したようですが、彼等は終わるなり良い拾い物(?)をしたと喜んでいたかもしれません。

他の3人が当時どういう気持ちでバンド活動をしていたのかは分かりませんが、音楽活動自体がまだ学生生活の合間の気分転換に過ぎない面があるジョンに関して言えば、この時点では「これが僕の運命のバンドだ」などという思いは無かったんじゃないかと思います。気さくで才能もありそうな3人のメンバーに会えて、ベースが思いっきり弾ける場が与えられた、それだけで当時の彼は満足していそうな感じです。

そしてこの同じ時期、彼はもうひとつの「運命の出会い」に遭遇しています。オーディションに受かってからもディスコ通いを続けていた(当時の学生の溜まり場といったらディスコくらいしかなかったんだそうで)3月のある日、やはり溜まり場に来ていた女子学生のひとりにばったり出会います。彼女の名はヴェロニカ・テッツラフ。マリア・アサンプタ・カレッジ(奇しくもブライアン達に出会った所と同じ。というよりここのディスコがメインの溜まり場?)に通う教員志望の学生でした。そう、今現在も見捨てず連れ添ってくれている(笑)、ジョンの奥さま。彼の人生は、19歳にしてぴたりと定められてしまったかのようです。 (2002年6月21日)

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