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「クイーン」

(黒田史朗・著)

第2章 クイーン結成――華麗な成功を夢見て

ジョン・ディーコンは一見静かな男(p35―36)
1971年1月。ブライアン、ロジャー、フレディの3人がニュー・グループ結成を誓ってから早や5ヵ月が過ぎ去った頃である。ニュー・バンド"クイーン"の正式デビューの準備は整った。残された問題はひとつ、ベース・プレイヤーを探すことだ。3人は何回もオーディションを行なったが、理想のベースマンにめぐり合えず、少し苛立っていた。そんなある日、クイーンの友達の1人がやってきて、素晴らしいベースマンがいる、と伝えて帰った。3人は早速そのベースマンをインペリアル・カレッジの講堂に呼んでオーディションをすることにした。7人目である。全てが終わったあと、ブライアンとロジャーは言った。
「返事は明日するよ」
そのベースマンは物静かに首をうなだれて講堂を去っていった。その3日後(☆返事は明日と違うかったんかい)、そのベースマンのもとに"合格"の連絡が届いた。クイーン4人目のメンバーの誕生である。そのベースマンの名前はジョン・ディーコンである。

ジョン・ディーコンは1951年8月19日にイギリスのレスターシャー州のレスターに生まれた。本名はジョン・リチャード・ディーコンという。ビーカム・グラマー・スクール時代にギターを本格的に弾き始め、1年と数ヶ月にベースに転向し、アマチュア・バンドを組んで、タムラ・モータウン系のポップ・ソウルに狂っていた。ロンドンにやってきたのは1969年で、チェルシー・カレッジに入学するためだった。しかし、彼も音楽を忘れられず、仲間とバンドを組んでいるうちに、クイーンの3人にめぐり会うことになる。
「僕はスマイルのステージを1度だけ見たことがあったので、オーディションを受けるまえからブライアンとロジャーがどんなミュージシャンなのか知っていた。僕はとても幸運だったと思う。ただ彼らの所へ行って、何曲かプレイしたら、彼らとピッタリ合ってしまったのだからね」
ジョンが当時をこう回想すれば、ブライアンは――
「あの頃のジョンときたら、とても静かな男だったよ。リハーサルにやって来ては、講堂のステージの片隅にポツンと立ってベースを弾き、リハーサルが終わると一言も喋らずに出て行ってしまう。ところが、グループが成功してからは逆さ。皆よりずっと外向的になったからね。つまり、ジョンは知らない人や信じていない人のまえではストイックで、素っ気無い静かさを装う性格なのさ」(☆よく見てるじゃないかブライアン)

第3章 レコード・デビュー――欲求不満解消

1973年9月、モット・ザ・フープルの前座として初トゥアを体験(p62―63)
約1ヵ月にわたるクイーンにとっての、初めてのサポーティング・トゥアは、メンバーの4人に大きな体験となった。公演旅行が終わったあと、ジョンは感想をこう語った。
「彼らとのトゥアは実に有益だったね。彼らは真のプロフェッショナルだ。僕達はずいぶん沢山のことを学んだよ」

(p64)
当時、ジョンはフルハムのスタジオのフラットに、ロジャーはリッチモンドのフラットに、フレディとブライアンはケンジントンのフラットに住んでいた。

第4章 グラム・ロックのカスだ――酷評と闘え

初のトップ・アクト公演旅行とリハーサル(p71―72)
(1974年2月末、イーリングでのリハーサルにて)
クイーンは照明とサウンドを効果的に合致させ、そこで演出的な舞台効果を盛り上げようと練習をしているのだ。また、音楽的にも新しい試みがリハーサルされている。バンドにキーボードを持ち込んだからだ。フレディが歌いながら弾く練習に時間を使っていたとき、電気の火花がジョンの椅子に飛び移り、ジョンはくるぶしに火傷を負ってしまった。(☆椅子に座って何をしていたのだろう)

"ワレ目にサインして!"という女性ファン(p74)
(1974年3月15日、グラスゴウ大学でのコンサートの後)
「ポンド紙幣をもってきて、サインをしてくれといわれたり、1回や2回は胸にサインをしてあげた。若い女の子がきて、"われ目"を露出して、サインをしてくれってせがまれたこともあったよ」
こんな話をフレディがしていると、ブライアンはファン達に手製のギターについて説明をしている。ジョンは女子学生達に取り囲まれていた。
「本当にジョンは静かだよ。いつも女の子を横取りしちゃうんだからね」
ロジャーがこういうと、ジョンは不服そうに顔をあげて、ニタッと笑った。しかし、このあと、ジョンのケースが盗まれる事件が起こった。幸いステージ衣装が入っていなかったので救われたが(☆普段着が衣装なのでそのまま着ていたのだろう)、カメラや小切手帳や沢山の個人的な持ち物、そのうえオーストラリア・トゥアの写真なども盗まれ、楽しい雰囲気は台無しになってしまった。

ブライアン倒れ、キャンセル(p87―p88)
ジョンはこのときのことを回想し――
「あのときは打ちのめされたよ。みじめで酷い時期だったね。だって、ブライアンがブッ倒れたのだぜ。バンドは頭をもぎとられた身体みたいだった。けれど、とにかく耐えなければならなかった。いまはあの苦境を乗り越えられたことで逆に自信をもったよ」

サード・アルバム録音開始(p88)
1974年8月12日(月)、EMIレコードとラジオ・ルクセンブルグ共催のカー・レースが、ブランズ・ハッチで行われた。スピード狂のスージー・クァトロ、ジョーディーのブライアン・ギブスン、コージー・パウエル、こうした連中のなかにジョンとロジャーが参加。レコーディング中の気分転換とシャレ込んだ。(☆結果はどうだったのか知りたいところだ)

第5章 批評家なぞ糞食らえ――高まる人気と自信

1974年11月1日、3枚目のアルバム「シアー・ハート・アタック」発売(p35―36)
(1974年10月26日付「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」のトニー・スチュワートのレヴュー)
…また、ジョン・ディーコンのすごい『ミスファイアー』があったり、…(☆すごい「不発」とも受け取れる)

…ジョンとロジャーは同じく、しばしば素晴らしい。ジョンは自分の曲において素晴らしい。特にバック・トラックの音から、ほとんど全曲の効果音や核心はジョンの手になるものだ、ということを述べておかなければならない。…

(1974年11月2日付「メロディ・メーカー」のアラン・ジョーンズのレヴュー)
…ロジャー・テイラーやジョン・ディーコンもそれぞれ曲を書いた。『テニメント・ファンスター』と『ミスファイアー』は衰弱している。…

1974年10月30日、イギリス公演旅行開始、異常人気の連夜(p108)
この公演旅行もクイーンに様々な収穫を与えた。なかでもジョン・ディーコンが自分を積極的にアピールする自信を持ったことは、ほかの3人を大いに喜ばせた。いままでのクイーンは、フレディとブライアンの2人がショウのハイライト役を演じたが、4人全員が観客から喝采を浴びる存在でなければならない。そのためにもジョンがステージをもっとショウ・アップするスターになって欲しいと望まれていた。
「ジョン、もしあなたがステージの中央に出て来て、会場の女の子にウインクしたならば、50ドルあげるわ」
興行マネージャーのテイヴ・トーマスの夫人キャロルは、ジョンにこういった。そんな煽動にジョンは初めは動じなかったが、ついにトゥアの途中でやった。ジョンは50ドル欲しさにやったわけではない。(☆いや、少しは欲しかったと思う)
「僕は勇気をふりしぼってやっちまったよ。とても怖かった。キャロルの羽のショールを首に巻きつけてね。ところが、それがベース・ギターにからまりそうになるので、すぐ取ってしまったけれど、なにしろキャロルがいうようにウインクしたのさ」(☆証拠写真が残っていたらぜひ見てみたい)
そして、各地を巡演していくうちに、ジョンは――
「いまじゃ、スポット・ライトを追いかけるようになった。信じられるかい?(☆あまり信じてないけど) ステージに立つのが以前より楽しくなったよ。少しばかり唄ったりもするんだ」(☆ノリだすと止まらなくなる性格がよく出ている)
クイーンに3人目のスター、ジョン・ディーコンが誕生したのである。次に、ロジャー・テイラーにもそうした目が向けられた。
「そりゃあ、僕だってそうしたいよ。でも、もし僕がステージの前で唄ったりしたら、誰がドラムを叩くんだい?」
ジョンとロジャーはクイーンのサウンドを"ソニック・ヴォルケイノズ・コントリビューション"(音の火山の贈り物)と呼んで、自分達のサウンドの成長を喜んでいた。

第6章 解散なんかしない――日米の成功と波紋

1975年2月、フレディが喉を痛め公演日程が狂う(p125)
(「レコード・ミラー」の3月29日のカリフォルニア・サンタ・モニカ・シヴィック・オーディトリアムのレヴュー)
…ジョンでさえもずっと動くようになった。事実、あまりエネルギッシュに動いたために、ズボンがほころびてしまい、大急ぎで縫わなければならなかった。…(☆ズボンのどのへんがほころびたのか、気にならないといえば嘘になる)

第9章 クイーンはチャンピオンか――独立独歩

1977年11月11日、アメリカ公演旅行開始(p213)
オークランド公演後、ジョンがウインドウのぶ厚いガラスに手を突っ込み、右腕に19針も縫う怪我をした。しかし、包帯を巻いてトゥアを続けた。

第10章 新しい試練への挑戦――過去を総決算

1978年10月28日、第6回アメリカ公演旅行開始(p234)
このトゥアの呼び物はステージ・ライトで、600個のスポットライト(公演会場によっては400個)で照らし、その光が千変万化したからである。次にファンを驚かせたのはジョン・ディーコンが髪をショート・カットにして登場したことだった。(☆ライトと一緒に「呼び物」扱いされてもなあ)

1979年12月26日から「カンボジア難民救済慈善コンサート」が開催され、その初日のステージを飾る
(「メロディ・メイカー」のジェイムズ・トゥルーマンによるレビュー)
…クイーンは彼ら自身の不自然さを知り、彼ら自身の矛盾を隠しきれなかった。ジョン・ディーコンは時々未来を予言するようなベース・プレイヤーになる。…(☆ぼーっと三白眼で演奏するからなのか、ベースが先走るからなのかは分からない)

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