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Queen before Queen
The 1960s RECORDINGS PART 4 : THE OPPOSITION

"Record Collectors"
Initial research John S. Stuart. Additional researh and text: Andy Davis.
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Young John with silk shirts
1966年、かの伝説的シルク・シャツを纏った恥ずかしそうなジョン・『スエードヘッド』・ディーコンがパブリシティを遠慮願っているの図。

学業

1966年の春、オポジションは学業が許す範囲で、週末ごとにプレイしていた。以下の記念すべき2つのギグが彼らのキャリアの波を物語っている。ひとつは1967年6月23日、HinckleyのSt.George's Ballroomでのこと。たった2人しか客が現れず、バンドは数曲プレイした後、家に帰った。もうひとつは9月にミッドランドの英国空軍基地でのショウのこと。間に20分の休憩を2回入れられただけで、4時間半演奏するように要請された。このように、非常に様々だった。

「何をプレイしようが別に構わないみたいだった」デイヴは言う。「音楽やってたら、何だって拍手してくれるもんさ。『モータウンかソウルやってくれるかい?』なんて誰も言わなかったから」バンドのレパートリーは基本的に、チャート・ソングやR&B系でもよりポップなものだった。「全員がビートルズにインスパイアされていたけど、彼らの曲は一度もやっていないんだ」ナイジェルは言う。 「けれどキンクスやヤードバーズはカヴァーしたよ。あとはThemの'Gloria'、Zombiesの'She's Not There'なんかね」

またこの頃、名前をニュー・オポジションに改名し、エンダービーの生協ホールで披露した。「ジョンがリズム・ギターからベースに転向した時に急に思い立ってね」リチャードは言う。彼の日記によると1966年4月29日のことである。興味深いことに、日記の中には、ディーコン達が「New」を付けた理由として長年考えられてきた、別のローカル・グループがオポジションを名乗っていたから、という事実は書かれていない。だがこの変更によって、主にリード・ヴォーカリストになったデイヴ・ウイリアムスが煽動して、バンドに弾みがついた。

「入った当時はビーチ・ボーイズをやっていたっけ。それでもうちょっとカタめのものができるんじゃないかって思ったんだ。Outer Limitsにいた時はジョン・メイオールやヤードバーズなんかをプレイしていたし、Impressionsみたいな良質のソウル、Statesみたいないかしたヴォーカル・バンドの曲をやるようなグループだったからね。それで僕は幅広い音楽を知った訳だが、それに比べるとオポジションは少しポップすぎた」やがて「タムラ」と「ソウル」の文字がオポジションの宣伝広告や名刺に現れるようになる。

1966年の終わりにかけて、ニュー・オポジションはロン・チェスターの加入によって更なる発展を遂げた。彼はOuter Limitsでデイヴ・ウイリアムスと一緒にプレイしており、その前にはDeerstalkersにいた。「ロン・チェスターは少しエキセントリックだったな」リチャード・ヤングは言う。「どこへ行くのにも、鹿討帽(Deerstalker)を被っていた。まあ、すごく良いギタリストだったけど。(デイヴ・ウイリアムス曰く「気絶しそうなくらいさ」。)恐らくロンがいた時分が僕らの最良の時だった」

1966年10月23日、ニュー・オポジションはミッドランド・ビート・コンテストにエントリーする。予選を勝ち抜いた彼らは、1967年1月29日のセミ・ファイナルに駒を進めるに至った。ここでも勝利を収め、1967年3月3日に行われるファイナルに向けて気を引き締めた。この日、Kenyという名のショウで売り込まれる予定だったが、このショウの主役は彼らオポジションか、ライバルのLegayと呼ばれる集団であるはずだった。(ちなみにこのバンドは1年後、"No One"[Fontana TF 904]というシングルを出している。今ではレアで80ポンドはする)

不運なことに、このコンテストが行われることはなかった。「あれはしくじったよなあ」ロンは笑う。「予選に勝ち抜いたみたいなんだが、実際のところ、演奏した覚えがないんだ。デフォルトで勝ち進んだかどうかも覚えていない。結局、急に打ち切られてしまったって訳さ――もしかしたら、また僕らがプレイするって分かったからかもね!」

カジノ

「予選はカジノって名のレスターのクラブで行われていたから、そこが演奏場所のはずだったんだ」ナイジェルは言う。「コンテストを運営していたのはこのクラブのエージェントでね。会社の名前はペンギン(P.Sかなあ?)・プロモーションだったかな。ペンギンみたいな歩き方をするんだ、彼が。足を突き出してね。ファイナルはDe Montford Hallっていう、レスターでは未だにメインの場所で行われる予定だった。僕達は思ったものさ。『こりゃすごいや。もしかしたら僕ら、大物になれるのかな』って。だが、なんとそいつがお金を全部持ち逃げしちゃったんだ――それで皆は見るのにお金を払わなくちゃならなくなって、ファイナルはお流れになったって訳さ」

デビッド・ウイリアムスはあまり苛立ってはいなかった。何しろその夜は別の「ご褒美」にありついたのだから。「勝ち残れたお蔭でディックの車に女の子を連れ込めたんだ。『キー借りてもいいかな、ディック?』って言ったら彼に突っ込まれたがね。『なぜだよ? お前運転できないだろ!』」

ニュー・オポジション――1967年初めに「ニュー」を再び取っているが――は、勝ち抜きコンテストのキャンセルで忘れ去られてしまったのだろうか? 彼ら自身、能力を公に認めてもらう絶好の機会だったのだから、実力を証明するチャンスを失って残念がっていたのだろうか?

「いいや。ほとんどどうでもよかったんだ」ロンは言う。「誰もそれがスターダムへの階段だって風には思っていなかったよ」では、ジョン・ディーコンはどう考えていただろう? チェスターが推測するには:「特に何も考えてなかったんじゃないかな。『キャンセルされちゃった。じゃあ、次は何をしよう?』くらいだろうな。そんなレベルの話さ。僕らは所詮、教会のホールに集まって技を磨いているような田舎のバンドだったし、金儲けが目当てでもなかった。自分達の音楽のことで精一杯で、依頼が取れて機材代が稼げれば御の字だった。働いたり学校行ったりしてたから、依頼は週に3回もあれば充分だったし」

悪どい商売はさておき、例のペンギン・プロモーターには、オポジションの面々のプロ・ショットに対する礼を言わねばなるまい。(「バンドの写真なんかほとんどなかったからなあ」デイブ・ウイリアムスの言。)1967年1月31日火曜日、セミ・ファイナルで勝ち抜いた2日後、「レスター・マーキュリー」紙は、オードビーのリチャード・ヤングの両親の家にカメラマンを派遣した。フロント・ルームに集まったメンバー達の写真がこれである(☆[1]参照)。1967年というより1964年から逃げ込んできたみたいな様相だが、ロン・チェスターの鹿討帽とデビッド・ウイリアムスの極端なシャツの7インチの襟――首から乳首のあたりまである――が年代を物語っている。

「デイヴはとても外向的な奴だったな」ナイジェルは言う。「でもあの長い襟のシルクのシャツはみんな持ってて、ステージ用にママやおばあちゃんに縫ってもらったんだ」デイヴも頷く。「僕らの衣装はみなごちゃまぜだった。シルクのシャツにツイードのジャケット――しばらくはファッショナブルだったけれど――それに、ベルボトムだもんな。音楽的には僕らは結構いかしてて、当時のそこいらのローカルバンドよりもずっと上手かったんだが、いかんせんこのピカピカに清潔なスクールボーイのイメージが裏目に出ていた。他のバンドと一緒に出た時に、そいつらはすっごく下手くそだってのに、見た目が良いってだけで客に拍手喝采されてさあ、あれはムカついたもんだよ。シャクに障るよな! 僕らはまだ学生で、長髪禁止だったんだから」

彼は続けた。「モッズの波の後は、長髪がとても重要になった。バンドやってる連中は背中まで髪を伸ばし始めたんだ。一年かもう少し後くらいに、ジョンやナイジェルと一緒にギグを見に行ったことがあってね、その時連中に振り返って言われたさ。『見ろよ! 奴ら毛が無いぜ!』マジで腹が立ったよ」

デイヴはさらに加える。「フラワー・パワーの時代も通り抜けてきた。それから、ポール・マッカートニーが着ていたような袖なしジャンパーが流行って、お腹を半分見せながらその小さいやつを着ていたっけ。その後、襟もフレアもない爺ちゃんのシャツみたいなのも流行ったな」ロン・チェスターによれば:「フラワー族のシャツやフレアズボンが至る所に溢れてた。オカマの洪水のど真ん中にいたって感じかな。でも皆そうだったんだ。着てない方が目立っちゃうんだから」

また、1967年には、オポジションのステージ・ショウに新たなアトラクションが加わった:2人のゴー・ゴー・ダンサーである。少なくとも、文献上はそうなっているのだが、リチャードはこう言う。「ほとんど記憶にないんだ。ニッグ(ナイジェル)も僕も、誰がダンサーだったのかなんて全く覚えてないんだよ」

デイヴ・ウイリアムスは少しばかり手がかりを与えてくれた:「大きな家に住んでる、パブリックスクールの金持ちの子達だった。幾つかのギグに来てたと思ったら踊り始めたんだ。その次の週から『ゴー・ゴー・ガールズ付き』と宣伝されちゃった訳さ。でも彼女達は実際はショウの一部という感じではなかったよ」

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