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雨の庭(前編)

Written by MMさん

長身の男に案内されて入ったその庭は、最低限の手入れがされているだけだった。
潅木が几帳面に刈り込まれ、どの花の苗も規則正しく植えられている。
男は振り向き様に、大きな体に似合わないか細い声で、それらを指差しながら言った。
「庭に関してはあなたに一任することにします、
必要なものがあれば、こちらで取り寄せますから、遠慮なく言って下さい」。
足元には雑草が揺れている。しゃがみ込んで引き抜いた時、頭に冷たいものがあたった。
そしてあっという間に―庭は雨に煙る―。

喜びがなかったと言えば嘘になる。
仕事を依頼する電話を受けた時、全身に心地よい震えが走ったのは確かだった。
興奮は今でも続いている。
しかし―ジョンはその高鳴る胸を抑え込んでいた。
案内していた男は、同じような質問を何度も浴びせかける。
あなたは寡黙な方か?、噂話はよくする方か?、タブロイド紙はよく読むほうか?、等等。
気に入られようなんて気持ちはない。自分は請われて来たただの庭師なんだ。
ジョンはそう自分に言い聞かせていた。

子供たちは、TVゲームに夢中。背後で派手な音と歓声が聞こえる。
ジョンはソファ-にもたれかかり、少し苛立ったような声で言った。
「もういい加減、よしなさい」。
もちろん、音は一向にやむ気配がない。はあいという答えは聞こえたが、どこが投げやりだ。
「返事はちゃんとしなさいよ」。
さらに苛立った声。再び投げやりな「はあい」。
「宿題は?、やったの?」。
「はあい」。
「本当?じゃあ父さんに見せてよ」。
「やだ」。
「何で?」。
年長の子が膨れっ面で振り向いた。
「だって…」。

…ジョンはいつも子供たちに言う。
どうしてこういう答えになったのか説明しろ、ここ間違ってる、字が汚い…。
妻のヴェロニカにはよく言われる。
「子供の宿題に、難癖つけなくたっていいじゃないの」、と。

腕のよい庭師と認められ、家庭にも恵まれて、人並みに幸せだ。
だが何か満たされないものがあると感じるのは、こういう時である。
僕はこの子たちのために言ってるんだ。難癖だなんてとんでもない…だが…。
そんなわけで子供にはすっかり煙たがられている。
ジョンは、家の中にある小さな部屋に逃げ込んだ。
子供部屋よりも狭い、とても書斎とは呼べない場所だったが、ここが今現在、彼が最も心落ち着ける場所である。
隅にある古ぼけたチェストの引き出しを開けると、中から色がすっかり変わってしまった紙の束が
次から次へと登場する。舞台のパンフレット。相当古いものだ。
台所から失敬したスツールに腰掛け、それらを一冊一冊、慈しむように持ち、ページを開く。
ヴェラにはほとんど話したことがない。彼女は夫にこんな趣味があったなんて、想像だにしないだろう。

ドアをノックする音で、ジョンは我に帰った。
ヴェラの声が聞こえる。
「ねえ、食事なんだけど…子供みたいにこもってないで出てきてくれる?」。
ジョンは慌てて、引き出しの中にパンフレットを仕舞いこんだ。


今日も雨。
ぬかるみに気を使いながら、ジョンはフード付きオイルジャケットとゴム長靴姿で、ゆっくり庭を歩く。
おおまかな広さを歩幅で測り、木の位置、高さ、苗の種類を確認する。
図面を書くのはあまり好きではない。
図面に頼ると、デザインが単調になりそうだ。融通も利かない。
彼が大切にしたいのは、閃き、動物的直感だった。
こうして身体で確かめた感触によって、庭のイメージを膨らませていくのだ。

探っていくと、かなりここが整然としているのがよくわかる。
全く遊びのない、数学的に計算された手入れのされ方だ。
この四角四面に剪定された木はまるでブロックのようだ。
ジョンは、小ぶりの剪定鋏を腰にぶら下げていた道具入れから取出し、少しその木に手を加えてみた。
…特に何の形というわけではないが…曲線が加えられた潅木は、にわかに表情を持ち始めた。
が、ここで雨足が強くなる。ジョンは空を仰いだ。ふと彼の目が、一点に集中した。

窓が開いている。庭に面した窓が…。
そしてそれは、彼の視線に気がついて、慌しく閉まった…ような気がした。

いそいそと帰り支度をするジョンの背後に、最初にこの庭を案内した例の男がそっと近づいて来る。
「もうお帰りですか?」。
「今日はもう無理です、明日出直してきます」。
男は力のない声で言った。「晴れればいいですね」。
作業道具をワゴンに積み込み、帰路につく。
ハンドルを握り、雨で歪むフロントガラスの向う側の景色に注意を払いながら、ジョンは思う。
ちょっといいタイミング過ぎはしないか?。
窓が閉まって、数分で彼が来た…まるで…監視されているようだ…と。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

レディー・マーキュリーが公の場から姿を消して、数年が経つ。
かつて怪物とさえ称された女優の唐突な隠遁は、今でも様々な憶測を呼んでいた。
よくない噂が流れていた。屋敷の周りはスパイがはびこっている。
彼らは生垣の影に潜み、あの窓を狙って、件の女優の姿をフィルムに収めようと躍起になっているのだ。
―疑われているんだな―ジョンの胸にそんな考えがよぎる。

少し花の位置を変えよう。
互いの色が映えるように、ランダムな位置取りをしたい。もう少ししたらルピナスを植える予定だ。
季節が夏に近づくにつれて、花壇の方は次第に鮮やかになってきた。
春先の忌まわしい雨からも開放されつつあった。仕事は思った以上にはかどっている。
庭については一任したという言葉は本当だったらしく、あの長身の男はジョンが木をどう刈り込もうが、
苗をどこに移動させようが、新しい鉢を持ち込もうが、一切口をはさむことはしなかった。
ただ、時々ふらりとやってきて、当り障りのない世間話を切りだしながらも、
その表情には、どことなく猜疑心が漂っている。

道具を取りに、外に止めたワゴンに戻ったところで、全く見知らぬ男に親しげに話かけられた。
屋敷の中のことを尋ねられたのだ。
何とか振り切り庭に戻ると、あの男が腕組みをした姿で、ジョンの目の前に立ちはだかった。
彼は抑揚のない声で聞いた。
「何か話しましたか?」。
ジョンが小首を傾げると、男は彼の服の袖を掴み、庭の中程…
ちょうどさっき土を掘り起こした穴のそばに連れていき、こう耳打ちした。
「何を聞かれても、知らないとだけ言ってください」。
ジョンは、穴をじっと見ながら、小さく頷く。

そう、知りたいとは思わない。知ってどうなるんだろう?。
真実は恐ろしい。それは曲げることが出来ない絶対的なものだから。
知ればもう逃れられなくなる。それが真実だ。
出来れば…知らない方がいいんだ。何も知らない方が。
ジョンは自分に言い聞かせる。
…言い聞かせる…それはここに来てからもう幾度となく繰り返されたこと…。

* * * * * * * * * * * * * * * *

「やぁ」。
背後でしゃがれ声がした。庭を囲む格子に植木鉢を取り付けている最中だった。
梯子の上から見下ろすと、恰幅のいい金髪の男がこちらを見あげている。
サングラスをし、仕立てのよいジャケットを着て、指には煙草。
いかにも業界人という雰囲気だ。ジョンは周囲を見回した。そして軽く会釈をし、再び格子に向き直る。
男は意に介さない様子でゆっくりと庭の中に入り、これまでジョンが手がけてきた花壇の花々やトピアリーを見ていた。
「君が新しく来た庭師?」。
ジョンは無言のまま、鉢をワイヤーで格子に固定する作業に勤しんでいた。
「たいした腕だって、ブライアンが誉めてたよ」。
ブライアン…あぁ、彼のことか。誉め言葉なんか、僕には一言もかけてくれなかったよ。
「洒落た庭になった、前の杓子定規みたいなのよりは数段いい」。
男は、黙々と作業を続けるジョンにはお構いなく歩き回り、煙草の煙を吐き出した。
ジョンがやっと反応したのは、煙草の灰が地面に落ちた瞬間だった。
梯子の上から身を乗り出すようにして、男を凝視する。
男は、ポケットから携帯の灰皿を取り出し、ジョンを見ながら大きな口を開けて笑った。
「俺を疑ってるんだろう?」。
そして、吸いかけだった煙草を始末したその小さなケースを再びポケットに仕舞い込むと、
両手の平を上に返して、肩をすくめた。
「堅気には見えんだろうけどね、タブロイド紙の記者じゃない」。

よく見れば…見覚えのある顔だった。サングラスと体型のせいでわからなかったが…。
昔はもっとすっきりした美丈夫だったのに…時の流れがそうさせたんだな…。
ジョンがかすかに微笑みを浮かべると、相手は堂々とした足取りで近づき、手を伸ばした。
ジョンは梯子を降り、握手に応じた。突然こう聞かれた。
「どうだい?、ここの女王様には会ったかい?」。
…女王様…、なるほど、そういう呼び方もあるのか。
ジョンが首を横に振ると、男は愛嬌たっぷりに言った。
「そりゃ残念だ、折角同じ敷地にいるのに、もったいないね」。
屋敷の中に消えていく大きな背中を見送りながら、ジョンは記憶を辿っていく。

ロジャーについて印象に残っている事と言えば、新進気鋭の演出家兼役者、
派手な女性関係、はっとするような女装姿…そしてレディー・マーキュリーとの交友…。
家に戻ってから、例の部屋に閉じこもり、パンフレットやスクラップブックを引っ張り出してみる。
見てよ、こんなにスマートだったのに…。
そこにいる男は、こざっぱりとしたシャツの前を大きくはだけた姿で、長椅子に寝そべっている。
そして隣には、けだるそうな顔で彼にもたれかかるレディー・マーキュリー…。
こんなに密着していながら、完全に邪推を跳ね返している。
だが、これが別な女性だったなら、単なるゴシップ写真で終わっていたかもしれない…。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * *

初夏―体を芯から冷やす雨からは逃れたものの、突然のシャワーも相当厄介なものだ。
あまり鋏を水にさらしたくなかった。
ジョンは東屋に入り、ベンチに座って、雨のカーテンの向こう側を眺める。
ここからの景色も確認しておきたい。花壇がどういう風に見えるか。木を刈り込む角度も計算しておかなければ。
彼の目には実際の風景は映っていない。そこにあるのは、まだ姿を見せていない庭の姿。
彼の頭の中だけに展開されている幻―。
突然、肩を叩かれた。
ジョンは我にかえり振り向いた。閉じた傘を持ち、訝しげにジョンを見ているブライアンがいる。
「何か考え事でも?」。
庭のイメージを…ジョンは言葉少なく語った。
「相変わらず仕事熱心ですね」。
ブライアンのその言葉には、少し皮肉がこめられているように聞こえるが…思い過ごしだろうか?。
彼はジョンが考えもしなかった報告をしにここへ来た。ここの女主人に会ってくれ、と言うのだ。

どうするべきか…?。
ジョンの心は揺れる。取り乱してしまうのではないかと不安になる。
だが…ブライアンは物静かでありながら、どことなく強引だ。
―べきである、といわれれば、断る術が無い。

二人で並んで東屋を出る。ジョンは必死で冷静さを装った。隣の男に察知されないように。
傘がそっと差し出される。たぶんはたから見れば妙な光景だろう。大の男二人が、あいあい傘とは…。
ジョンの動揺には気がつかないのか、ブライアンは、いつもと変わらぬ様子で言った。
「通り雨だと思ってるでしょう、でもこれは当分止みませんよ、天気予報は雨ですから」。
…庭師としたことが…ジョンは一本取られたと思う。天気予報までは確認していなかった。

屋敷の中は、ヴィクトリア朝の調度品で埋めつくされている。
心底ヴィクトリアンなんだな、とジョンは改めて思った。
ジョンがいつも出入りしている使用人専用の裏玄関のノブまで、凝りに凝っていた。
古き良き時代の典型的な文化人―大英帝国からそのまま抜け出してきたような人―。
ブライアンは、ジョンの少し前を歩きながら、訥々と語り始めた。

この家は彼女が庭を気に入って買ったようなものです。
昔は二人でよく庭の手入れをしてました、最近は私が一人で…。
ロジャー…この前来た金髪の男、よく笑ってましたよ、算数の問題用紙みたいな庭だって。
なかなか適任者が見つからなかった。、腕がいいばかりじゃダメでね、
ここは事情がいろいろ複雑だ、あなたに話かけてきた男、あれはタブロイド紙の記者ですよ、
ゴシップ狙いの…あんな連中、ここに近づけたくない、
噂は聞いてるはずだ、でも…そういうことは頭の中から消してくれませんか?、
先入観を一切頭の中から排除して、彼女に会って欲しいんです…。
わかるでしょ?、私の言いたい事は…。

この数週間、自分は“品定め”されていたわけか。
今までの威圧感のある彼の態度に、こういった背景があるのは十分察していたが…、
だが、ブライアンの口元が少し痙攣している。ジョンに疑念が湧く。これはいったい誰の希望なのだろうか?。
その数秒後、答えが返ってきた。
「彼女があなたに会いたがってるんです」。

窓際の、これもまたヴィクトリア朝の椅子に寄りかかっているその人は、
想像していたよりもずっと小柄だった。果たして噂は本当なのだろうか?。
ここから見る限り、特にやつれているようには見えない。だが少々厚化粧のような気がする。
顔色が悪いのを誤魔化すためなのだろうか?。それとも単に素顔を見せたくないだけなのか?。
繊細な指先は、細い顎に置かれ、何よりもジョンを驚かせたのは、その黒い大きな瞳の力強さだった。
ジョンは射すくめられ、部屋の隅に立ち尽くしていた。

彼女―レディー・マーキュリーは、首をちょっと傾げ、歌うような声で言う。
「あなたが新しく来た庭師さんね?、お仕事、いつも拝見させて頂いてます」。
そして、手をジョンに向かって差し出した。ジョンは未だに部屋の隅から動けないでいた。
催眠術にでもかかったように、一歩がで出ない。額に脂汗が滲む。
レディー・マーキュリーは、その様子を悪戯っぽい微笑みを浮かべて見ていた。
「もっと近くに寄って下さらない?」。
―そうしたいのはやまやまだけど―ジョンが恐る恐る後ろを振り向くと、困惑顔のブライアンが、
目配せした。遠慮するな、とでも言いたそうな顔で。
何とかレディーに歩み寄る。そして差し出された彼女の手を握り返す。大きい手。
ジョンは消え入りそうな声で、自己紹介をした。
レディーは満足そうな表情で、傍らにある少し小さめの椅子を指し、ジョンに座るように勧める。
彼がおっかなびっくり従った。本来…自分の立場じゃ、こんなところにはいないはずなのに…一体全体…。
素晴らしい機会なのに…レディーの言葉はジョンの耳には届かない。すべてが上の空である。

ねえ、たのむよ、こんなこと、よしてくれる?。張り裂けてしまいそうなんだ、
この非現実的な世界の中で、自分を保つなんて無理だ、おかしくなってしまう…。

「あなた、芝居はごらんになるの?」。
突然の質問に、ジョンは眩暈さえ覚えた…なんて答えようか、余程言ってしまおうかと思った。
あなたの舞台は通いつめてました…と。
(何様のつもりだ?)。ふいにもう一人のジョンが語りかけてくる。
目を覚ませ、よく考えてみろ、彼らとお前じゃ生きる世界が違うんだ。所詮お前はしがない庭師…。
額と鼻の頭に、したたるほどの汗を滲ませながら、ジョンがやっとの思いで搾り出した言葉は
たったこの一言だった。
「普通…です」。
普通って、どういうこと?。それじゃ的確な答えになってないじゃないか。
ジョンは後悔しながら、レディーを上目づかいで見る。彼女は相変わらず大きな黒い瞳で彼を凝視している。
沈黙が部屋に充満する。聞こえるのは雨の音だけ。

穴があきそうだ。その強い視線。彼女は自分が何か言うのを待っているのだろうか?。
無理だ。何から切り出したらいい?。彼女と自分の間には、超えようとしても超えられない大きな高い壁がある。
それはまるで鏡の中の世界。見えてはいても決して触れることの出来ない世界。
向き合えば向き合うほど、その遠さに虚しくなる。耐えられない…。

ジョンは発作的に立ち上がった。そして上ずった声で言った。
「も、もう仕事に戻ります」。
唐突な行動にも、レディーは特に驚く様子を見せない。椅子にどっしりと腰を落ち着けたまま、
視線だけはジョンから決してはずすことがない。その顔には微笑みすら浮かべている。
その落ち着きぶりに少し感服しながらも、居心地の悪さはどうにもならなかった。
ジョンは踵を返した。その背中にレディーの声がかけられた。
「雨は当分止まないわ、ねえ、ブライ、Mr.ディーコンにお茶を…」。
腕を組んで壁に寄りかかり、一部始終を見ていたブライアンが動き出すと同時に、ジョンは首を振って
「いえ、本当に結構です」と言うと、弾丸のように部屋を飛び出した。

ジョンは破れそうな胸を押さえながら、仰々しいドアノブを握る。
背後で足音が聞こえる。ブライアンが追ってきたのだ。
「何をそんなに急いで…」。
ドアを開けると、雨が激しく振っていた。
「こんな雨じゃどっちみち作業は出来ませんよ」。
黒く分厚い雲が空全体を覆っている。ジョンは一瞬躊躇した。どう見ても、すぐ止むような雨ではない。
でも、彼らと同席してティータイムを楽しむような心臓強さは持ち合わせていない。
「すみませんが…お茶だけは遠慮させて頂きます」
ジョンは薄手のジヤケットを脱ぎ、頭から被りながら言った。
「今日は帰ります、また明日来ます」。
そしてしばしの沈黙の後、こう続けた。
「あのご婦人に、折角の申し出を断ったことを申しわけなく思っているとお伝えください」。

庭に放置した道具を抱え、駈け足でワゴンに戻る。と、途中で何かにぶつかった。
「や、失礼」。
ロジャーだ。彼は傘をさし、ジョンはジャケットを頭からすっぽり被っていた。
お互いに気が付かなかったようだ。ロジャーが小脇に抱えていた書類が水溜りの中に沈んだ。
「ああ、申しわけない!」。
ジョンはロジャーとともにしゃがんで、それを拾う。恐縮して謝り続けるジョンをロジャーが制した。
「いや、いいんだ、これは全くの下書きだから」。
「下書き?」。
ジョンが思わずつぶやいた。独り言のつもりだったが、ロジャーの耳にはしっかりと届いていたようだ。
「ああ、新しい脚本さ、女王様用の、でも下書きだからいくら汚したって構わない
どの道、みんなでああだこうだと弄り回して、書き込みで真っ黒にしちまうんだから」。
女王様は公の場から姿を消している。だが脚本は用意されてる。
やはり噂に過ぎないんだろうか?。
ロジャーは、紙の束の端を持って何度か降り、軽く水を落とした。遠雷が聞こえた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

小さく古い劇場の楽屋口に、一人の青年が立っている。
胸にはしっかりと、おそらくそこで演じられたと思われるパンフレット―ガリ版刷りの粗末なものだったが―を抱え、
お情け程度に突き出している庇の下で、雨を避けている。
だが雨は容赦なく、彼の栗色の髪を濡らす。古ぼけたオイルジャケットのフードを被ってみた。
視界が狭い。すぐに元に戻す。
人影が見えた。最初に出てきた長身でカーリーヘアの男は、外の様子を伺うとすぐ引っ込んでいった。
声がかすかに聞こえた。
「この雨じゃ、いい加減傘をささないと…用意してくれる?、どんなのでもいいから」。
しばらくして、「ないんだってさ」という答えが返り、再びドアが開いた。
さっきの男が黒いベルベットのジャケットを脱ぎ、後ろにいた女性の頭からすっぽり被せる。
青年は最初戸惑っていたが、意を決したように彼らの側に走り寄る。
オイルジャケットのフードから、水がジャブジャブと溢れ出した。
庇から流れ落ちた雨水が短時間で大量に流れ込んでいたのだ。
出口に固まっていた彼らから失笑が漏れた。一瞬青年の足が止まった…恥ずかしさのあまり…。
その時、ベルベットジャケットのわずかな隙間から、黒い大きな瞳がのぞいた。
その視線は青年を釘付けにした。
まるでメデューサに睨まれたみたいだね。あなたは石になって、もう一歩も動けない…・。

石になった者は本当に不幸なんだろうか?。
中には望んで石になった者がいるかもしれない。石は永遠じゃないか。
この世にずっと存在しつづけるんだ。砕けて砂になってもね…。

彼女が何の予告もなく近づいてくる。
心臓は胸を裂いて飛び出しそうな程激しく鼓動を打っている。
衣装だろうか?。黒いサテンの袖が見えた。そこから少し浅黒い腕が、青年の方に伸ばされた。
「舞台、いかがでした?」。
それが彼女が発した第一声だった。青年は手のひらをゆっくりと握り返しながら、少し高めの声で答えた。
「す、素晴らしかったです…」。
それだけ言うのが精一杯だった。頭の中ではいろんな言葉が駆け巡っていたが、
それはこの一瞬にすべてかき消された。必要なかったのだ。
彼女の微笑み、そして手の感触だけで十分だ。大きい手だった。
雨がさらに激しくなる。男が彼女の肩を抱き、雨からかばうように道路に続く階段を降りていく。
青年は夢見心地でそれを黙って見送っている。自然に笑顔が浮かぶ。
が、突然後ろから、すごい力で突き飛ばされた。手からパンフレットが落ちて、水溜りに沈んだ。
「ゴメン!」。
背後でしゃがれ声がする。無造作な金髪の男が、びしょ濡れになった紙を拾い上げて何度か振った。
「本当にゴメンよ」。
紙を渡し、青年の肩を慰めるように叩き、彼もまた階段を降りていく。
先を進む黒装束を追いかけるようにして。彼はこう叫んでいた。
「おい、待てよ、今車出してやるから!」。
その声と重なるようにして、遠雷がなった…。

* * * * * * * * * * * * * * * * * 

ロジャーは不思議な男だ。
ショービジネスの世界に長いこと身を置きながら、何故かあまり威圧感がない。
しかもどんな相手にもうまく取り入って、上手に自分のペースに乗せてしまう。
どんな話題も彼の話術にかかれば、一つのストーリーになる。
ジョンは羨ましかった。自分もこんな風に立ち回れたらどんなによかっただろう。
頭から被っていたジャケットは、絞れるほど濡れている。
ロジャーの上等のジャケットも、すっかりびしょびしょだ。
「ああ、もう中に入らないと、女王様がお待ちかねなんでね、君はどうする?」。
ジョンはロープを巻き直しながら、もう帰ると答えた。
「仕事になりません、雷も近づいてきてるみたいだし」。
ロジャーは懸命だと答え、手を軽く振ると屋敷に向かって言った。
それを見送りながら、ふいにジョンにある誘惑が沸き起こった。
彼はためらうことなく、ロジャーの背中に向かってこう言った。言ってみたかったのだ。
「さっき、女王様に会わせてもらいました」。
振り向いたロジャーの口元にはうっすら微笑みが浮かんでいる。
ちょっとは気の利いた台詞だっただろう?。
ワゴンに乗り込み、ジョンはバックミラーに映る自分の顔に向かってそうつぶやいた。

家に戻ってずぶ濡れになった体を洗い、食事を取り…いつものように小さな部屋にこもる。
彼が引き出しから取り出した紙は、一度水に濡れたものだ。細かい皺がよっている。
これで「おあいこ」ってことなんだろうか?。
紙には、カリグラフィーで書かれた文字が堂々と躍っている。レディー・マーキュリー。
その隣には、大きく翼を広げる不死鳥が描かれている。

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