フレディのピアノPart2 奏法+ちょっと歌話

Written by Jun Greenさん

ショパンの影響下のフレディ
エラの間接的影響は・・・

ショパンの影響下のフレディ
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ショパンを愛していると公言しているフレディですが、その生まれならではの次元 の高い「感性」が 後のQueenでの名曲・名演に繋がっていくのです。特にその演奏するスタイルを体得 するにあたり、 フレディにピアノを教えた教師はかなり「古典練習方法」を基礎として、フレディ に教えた様ですね。 そしてその「経験」Queenの中でいたるところに見受けられます(特に70年代には !)。 また「楽曲」としても「夜想曲」を愛していたのが、彼の初期のピアノ作品には反 映されていますね。 「夜想曲」の意味ですか、セレナーデ・・・夜に奏でるちょっとした愛の歌ですよ ・・・ねっフレディ!

さて悲しいかな「フレディピアノ論」であるが故、「ショパン論」はもっと他の「 真面目」な見識者に まかせたいが、先に述べた「古典練習方法」が何故か今の日本の「ピアノ教育」に 相反することが多く その特徴的部分を抜粋しても、日本人には「ショパン」はおろか「フレディのピア ノ」すら理解の範疇を 超える部分であり、こりゃ「農耕民族と騎馬民族の違い」だけではすまされない奥 の深さと同時に、日本の 安定した「平均点思想」の音楽教育の隙間を垣間見る気分である。少々乱暴ではあ るが、幾つかの例とその 差違に関して述べてみたいが、私の様なクラシックにおいて若輩者が語っても意味 を為さないと叱咤を受ける かもしれないが、それを私に教えてくれたフレディへの「敬意」との発言と受け止 めて頂きたい。

「農耕民族と騎馬民族の違い」
これは「リズム問題」ですね、日本人が「ワルツ下手」な理由のトップに上げられ ていますが、実際問題として ワルツは元々貴族のダンスミュージックな訳でして、足は2本で拍は3拍と言う割り 切れない状態で踊るのが なかなか難しいのは御承知の通り、しかし貴族ならでは優雅さを兼ね備えた形式で すね。日本人の多くは 「ワルツ」と聴くだけで「ヨーロッパ」を想像するような印象がありますが、フィ ギユアスケートでの ヒール&トウのステップを見たり、ベジャールあたりの「足さばき」を見ていると、 フレディの憧れた世界の 縮図がワルツに見え隠れしますね!! はねる! 踊る!! とても日本の「星影」では 無理ですね(だから別れの歌なのね) しかし、これがショパンの世界に入りますと「ポロネーズ」と呼ばれた「祖国」の リズムであり、ショパン 自身の中でも特に「畏敬の念」を抱いて作曲された楽曲が多いですね。実際ヨーロ ッパのワルツ(特にドイツ) と比べますと幾分ハネ気味で軽やかなリズムです(友人に言わせると弦楽とピアノで はヨーロッパの中でも異なった ワルツの扱いになるらしいが・・・)。もしかして、フレディが存命ならば「オペラ 」の後には「ショパン」「ワルツ」 といった「ルーツ」に「テーマ」を求めていたら?、フレディ未完のテーマの筆頭と して個人的には無念である。 特に日本の音楽教育の中ては「3拍子=ワルツ」と言った乱暴な解釈を見受けるが、 ヨーロッパ等でのダンスワルツは 「ズン・チャッ・チャッ」と短く跳ね、アメリカンなジャズワルツでは「ズー・チ ャァ・チャァ」と引っ張り気味に 演奏するのだが、日本人のワルツは「タン・タン・タン」(よく音楽の授業で先生が 言ってましたね・・・こんな風に) と無味無感動なリズムが多く、結果として日本人が「ワルツ下手」と呼ばれる感性 を植え付けられているのかも・・・。

「白鍵ではなく黒鍵を中心とした運指から」
日本ではハノンが近年の「ピアノ入門編」として定着しているが(最近違う動きがあ りますが)、ここではまず 「白鍵」のみを鍛練の目的として使用しています。が、ショパンはまず「黒鍵」を 主軸とした練習を提唱して いました。これは人間工学的にも正しく、指はそれぞれ異なった長さをしています 。両端の親指、小指は とくに短いので、手をピアノを弾く形にした時(中3本を曲げた状態)、白鍵のスケー ルでは中3本と両端2本の 均等性が難しいです。が、黒鍵を中心に考えると中3本で黒鍵、両端2本で白鍵に割 り振れば、均等性も維持 しやすく、指をくぐらす運指も白鍵に比べて比較的楽に動きます。初心者の特に子 供の小さな手の場合は 白鍵を使用するより負担が少なく練習できますし、黒鍵で慣れてから徐々に白鍵を 増やした調で慣らしていく 方が自然にピアノに馴染みますね。今の日本の定番的教育とは全く逆に思えます。 特に日本人は♭♯が増える と「いやな顔」をするピアノ弾きが多いですが、ショパンの方法だとこんなピアノ 弾きは生まれてきません。 ちなみに「白鍵だけで弾ける美しいピアノ曲」自体クラシックピアノ界は少ないで すし、なぜ「白鍵」が ピアノ教育の「基本」なのか理解に苦しむところです。また、その結果として「ハ 調で弾く○○」の様な 「作曲家の原調の意志を無視した」譜面が売られているのも「日本」ならではです 。こんな状況ではあの 美しい「Death on...」のイントロを理解する事も、展開部のタッチにおいて次に書 く「レガート」の妙技を 理解する事は遠く及びません。フレディを通してショパンに再敬礼!!! ちなみに黒鍵の運指をこなしているからこそMy Melancholy...でのあの様な「アド リブライクなプレイ」を 楽々とやってのけるのでしょう。白鍵主義の日本人には到底理解できない範疇です なぁ・・・。 「ブルーノート」等「非ヨーロッパ」的スケールを弾く時でも「敵」は「ハノン教 育」かも知れませんね。 まぁ、チャーリーパーカーが「間違えてD♭で」練習をしすぎてA.Saxが旨くなった のとは違う論理ですが(笑)。

「アルペッジョとトリル」
アルペッジョとは一般のポピュラーで言う「アルペジオ」といった「分散和音」の 奏法の意味では無く ギターをコードでかき鳴らす様に「じゃらーん」とピアノを鳴らす奏法である(波線 うねうね記号)。 トリルは隣合った音を細かく鳴らす装飾音・・・てな事は判っているぞいな! と言 われそうだが、ショパンは このような「特殊表現」を指定以外の場所で「演奏者の感性」で「するなかれ」と 、のたもうている。 理由は簡単「やり過ぎは効果が少ない」であるが、フレディもかなり忠実に守って いるが判る。 アルペッジョはYou take my...のイントロでも聴けるように歌のバックとコントラ ストをつけて使用し、 Lap of...イントロの「アルペジオ」の後の「アルペッジョ」などは「センスの良さ 」を非常に感じる。 トリルに関しては2ndでの至るところでの使用が好例であるが、個人的に「Best ト リル」をあげるなら なんといってもLove of my...のイントロのトリルでしょう。この部分の音の粒立ち は「特盛汁濁」のごとく 「並以上」の技量をこの「一瞬」にして感じさせてくれます。特に前後の音との繋 がりの美しさといい 見事な音量配分といい「まともにピアノを弾かないロックキーボーディスト」には 信じられない技である。 (えっそれはおまえだろ!!って・・・冷たい女房だなぁ・・・)

「レガート(なめらかに)たっぷりの音を覚える」
これは「歌い方」の技法でして、特定の和音や装飾音以外のすべてに基本的にショ パンは適用していました。 しかし、それらしくメロディが聞こえるならばレガートを少々無視しても平気なピ アノ弾きが多い中、 「呼吸法」とも同じくする「レガート」の重要性は、前述の「運指」とも相まって ピアノ弾きの命題でした。 例えば「そのスタッカート(素早く指を上げて音を切る)フレーズをレガートで弾い てみて! でもテヌート (ねばっこく)じゃないよー!」と言った場合、とたんに「ちょっと練習させて」と言 って休憩をとり、 暫くして「許して、弾けないわこりゃ!」と言うピアノ弾きは「いかなる練習もレガ ートで」と言うショパン の教えが行き届いていない環境で育ったのでしょう。もっと単純な例として「速い と弾けるフレーズ」を 逆にテンポ落としたら「遅くて弾けないフレーズ」になる事がありますね・・・(ど っちも弾けない、俺だ!!)。

レガートで弾くと言う事は、指を「降ろす」タイミングではなく「上げる」タイミ ングの教育を意味します。 これにより「運指」として「弾いた指と次に弾く指」のコントロールが鍛えられ、 ここで鍛練を積めば 「スタッカート」も弾きやすく、ひいては「音の長さ」と「次の音への繋がり」と 言った「音価」を高める ことになり、リタル・アラル・アチェル・ストリンジェンド等テンポを変化させる 状況の中で、指を独立させて 「音のコントロール」を可能とする為には不可欠の技術です(ちなみに私は出来ませ ーん!! えへん!! ヤケじゃ!)。

Death on...の歌前の印象的な左手のラインでも「たっぷり歌っている」のが判りま すし、例のBohemianの イントロでの左右交差して弾く左手のG.F(ターン・ターンの音)は、特に柔らかく美 しく、ヘッドフォンで 聴いていると「この音だけ」他とは別個のリバーブ処理がなされており、歌い込み にあわせて残響が移動 するのが「えくすたしー!!」な快感を呼び起こしてくれます(もしかしてG.F音をダ ビングしてリバーブを かけた後で、原音を消して残響音のみを抜きだして処理した様にも思えるぐらい美 しい音である)。

フレディは元々弾き語りであるが故「自分の歌に自分のピアノを合わせる」のは当 然楽勝なのですが、 それ以上に、また無意識の内に「同じ音符でも音価を変える」技を披露しています 。特にわかりやすいのは A DAYの頃の各ピアノプレイですね、テンポと楽曲の状況に応じて次々「ノリ」の変 化するピアノは驚異です。 これはレガート(なめらかに)たっぷりの音を覚えている為、その音の長さのコント ロールによってテンポ感を 変えて聴かせている部分は素晴らしく、またジョンの好サポートも相まって素晴ら しさが増しています。 この頃のジョンはロジャ−のドラムよりフレディのピアノを聴いてBassを弾いてい るのが良く判ります。 このアルバムでは「ドンカマ変わり」に「フレディのピアノ」が使われている曲が 多く、他のアーティストで これに近い例は「一発録り状態のビリージョエル」「全部1人で演るスティーヴィ ー」程度のものでして 他人が聴いても導ける「指揮者」の様なフレディのピアノの実力ですね。ちなみに この技量のおかげで ステージにおいても「他の3人に背を向けて、アイコンタクトも無しで」ピアノを弾 き歌えるのです。 みなさん、不思議に思った事はありませんか?ステージでのフレディのピアノ位置、 他のどんなアーティスト でもお目にかからない位置ですが、普通は怖くて・・・それを可能にしたのはショ パンの影響かな?

エラの間接的影響は・・・
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フレディはボーカルスタイルにおいて、スキャット等の技法に関して「エラ・フィ ッジェラルド」の名を挙げて いますが、もし「影響」を受けるほど聴いていたなら「エラを支えたピアニスト」 の影響も間接的に受けていた とも思えます。ピアノ演奏ではなく作曲の面においてはOPERAの頃の「ROCKらしから ぬバラエティにとんだ」 作品群やアレンジにもその「影響」が伺い知れますね(においがプンプン!!!)。 特にフレディの「多感な時期」の50年代後半から60年代前半は「エラのバァーヴ期 黄金時代」とも交差しており、 このあたりのエラのレコードを聴いていたならば「オスカー・ピーターソン」「カ ウント・ベイシー」あたりの 「名伴奏」をフレディは聴いて育っているのでしょう。My Melancholy...の様に「 ショパンの技法にエラの感性」の 結晶とも言える作品の数が少ないのは残念ですが、ライザ・ミネリ等の「ショウビ ズ」の影響を露骨にあらわした 「ソロの時代」にはその片鱗がわずかに伺えます。もし、存命ならば是非「フレデ ィ with Big Band」みたいな形態で 「スゥィング」や「ミュージカル」の名曲を演って欲しかった・・・(NY.NYとか !!)、そしてそんな曲の間で数曲程 「弾き語り」でMy Melancholy...の様な曲を2.3曲披露してくれれば・・・無念きわ まりない・・・。

Great Pretenderでは当時は影響力のあるビデオ・メディアでの「セルフぱくり&男 (お◯モ)宝塚」の印象が強いが、 こういった楽曲を「芸(ゲイ?)風」で遊んでしまうのではなく、「原点回帰」みたい な形でのアプローチで取り組んだら どんな「フレディ」を見る事ができたのだろう・・・。全くの個人的な意見だが「 もしQueenが解散したら」フレディは 「オーケストラ」「Big Band」「弾き語り」を軸に「ショパン」「ミュージカル」 と言った分野に挑戦して欲しかった。

なおピアノではなく、ボーカルスタイルにおいて「エラ・フィッジェラルド」の影 響を感じるとするならば、歌い回しで 「エラ」の頃の「女性ジャズボーカル」が必ず身に付けていた「ファジートーン」 の技法をMy Melancholy...やソロでの バラード、スローナンバーで感じとる事ができますね(Queenの中ではRockらしさが 消えるのであまりやっていない、が You take...やJerlousyでのもどかしい感覚・感性はこの技法によるところ大きいで す・・・)。 これは単純に歌い回しのさい、歌いだしの音を「少しピッチ低め」で始める事によ りラブソング等での「もどかしさ」 「切なさ」等を感じさせる技法で、特に歌いだしの音が「そこのコードの3度」なら ば効果は絶大で、昔の「3コード」的 楽曲の場合は多くにおいては「ブルーノート」と呼ばれる部分になり、独特の「悲 しさ」を感じさせます。 これはギタリストが「チョーク・アップ」で演るのと似ていますが、音楽的な能力 から言えばギタリストの荒技で 「低音E弦一瞬ペグ緩めチューニングダウン後即戻し」と同じく「正確な音感」を備 えていないと出来ない技です。 ショパン等のクラシックの音感教育を受けた上での基礎がフレディにあるからでき たのですね。

深く知れば知るほどに無念なりし・・・天賦の才も天命には勝てず・・・唯我々が 語り継ぐのみとは・・・

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